光明の生活を伝えつなごう

光明主義と今を生きる女性

光明主義と今を生きる女性 No.11 本堂の阿弥陀様、台所の菩薩様

菅野 眞慧

数年前の善光寺年頭別時最終日1月5日の出来事です。元旦からの別時念仏を皆さんが満行し、晴れやかな笑顔で帰路就くのをお見送りしました。善光寺に住む者として、今年も無事にお別時が終わったことを喜んでおりました。天気も良いし、まだ気も羽っていて・・・よし、この勢いでシーツと枕カバーを洗濯するかと、男性の就寝部屋の布教堂西の間と東の間のシーツと枕カバーを回収しようとしたら、何処にも見当たりません。おかしいなあ?と西の間の押し入れを開けて呆然・・・そこには、お別時中に皆さんが使ったお布団が、シーツのついたまま乱雑に突っ込まれていて・・・枕カバーのついたままの枕が布団の中に埋もれ、腕をつっこんで引っ張り出すのに一苦労。結局、・・・お布団を全部出してやり直しました。お念仏の腫れにうっすら陰りのさすような、なんのためのお念仏ですか・・・

善光寺のお別時を長年、裏方で支えて来た私の母は何も言わないけれど、私以上にこのような、「なんのためのお念仏・・・」という体験をしてきたことだろうと思います。裏方は別時念仏が出来ません。元旦夕方から5日朝まで、朝、昼、晩の食事の準備。農家のお檀家さんが持って来てくださるお米、お味噌、漬物や採れたての野菜を中心にした手作りの料理。すべてが手作りなので、当然お別時が始まってからは一日中、ご飯の準備に明け暮れる状態です。「大変でしょう」「こんなお別時ができるお寺は何処にもありませんよ」と言われます。台所仕事で自分自身はお念仏が出来ない母に、亡き先代住職眞定和尚は「あなたは一番の菩薩行をしているんですよ」と言ったそうです。母はその言葉を胸に、嫁いでから今に至るまで、台所仕事に徹しております。トントンと刻む包丁の音が母の木魚。前日までに皆さんの使う毛布を廊下いっぱいに広げて日に当てて、お別時中はあっという間に美味しいお料理を作ってしまう母の姿は台所の菩薩様。私はお別時のあるお寺に生まれ、小さい頃から母について、二人の妹と配膳やお風呂の準備などのお手伝いをしながら、本堂の木魚の音を聞いて育ちました。三十代で僧侶になってから、一度母と二人で京都金戒光明寺での「法の集い」に参加したことがあります。自分の寺を離れ、お念仏に集中できる初めての貴重な時間を過ごし、喜びをかみしめる母の姿に、また一緒に何処かでお別時につきたいと思いながらも出来ないでいます。最近では、やはり世代交代で、近くに嫁いだ妹とともに、食事係に取り組むことも多くなりました。しかし実際には、なかなか母の様には動けません。それでも、皆さんがお念仏を終え本堂から降りてくる時には、温かくて美味しいものをちゃんと準備したい。唐沢山では、お別時中の食事を味わって食べているようでは、お念仏の修行はまだまだ・・・というような注意を受けます。しかし、善光寺のお別時はやはり、手作りの温かい食事を励みに、皆さんお念仏に精進され、「美味しかった」とほほ笑んでくださる。その姿はやはり食事を作る者にとって、何よりの喜びであり、励みであります。

僧侶である私に対して、「本来は本堂で木魚を叩きお念仏をせねばならない」という声もあります。もっともな意見ですが、それはやはり理想論であって善光寺別時の全体が見えていない言葉ではないかと思います。私は僧侶でありますが、善光寺の裏方の女性でもあるのです。本堂に籠ってお念仏と同時進行で朝昼晩の食事やその他全般の準備をすることは出来ないのです。

僧侶であっても女性としてこの寺に生まれ、裏方の仕事に誇りを持つ以上、祖母から続く、朝昼晩の手作りの食事を受け継いでいきたい。本堂に入るべきか、お米を砥ぐべきか悩んだこともありました。そんな私に河波先生は「お別時の裏方は大変な菩薩行ですよ」と仰ってくださいました。菩薩行という言葉に母の姿が重なります。やはり私も、皆さんがお念仏に集中できる環境を整えるお手伝いを自分の喜びとしていきたい。今は裏方に徹したいと、台所の菩薩行に徹して行こうと決めています。しかし、父である現住職のお別時が終わると、右手を腫らして疲れ果てている姿も気になります。どうか、本堂の住職の補佐をしてくださるお坊様の参加が増えて、善光寺別時のお念仏を支えて戴けるよう、この場をお借りしてお願い申し上げます。また同郷大分の尼僧仲間として、善光寺別時には、いつも裏方に徹してお手伝いしてくださる、長昌寺の今井光順さんにも感謝申し上げます。お別時に参加される方々から、さりげなく助けて戴いていることにも気付かされる今日この頃です。

皆さん、本堂の阿弥陀様はもちろん、常に皆様とともにおられますが、裏方の台所の菩薩様も皆様のお念仏の姿、しっかりと見守っていますよ。私はまだまだ菩薩の境地にはいたっておりませんので、どちらかといえばお不動様のような明王様のような形相で、最終日の皆さんのお布団の整頓具合をチェックさせて頂いております。近頃は男性陣一丸となって、来たときよりも美しい押し入れのお布団整理が出来ております。それが嬉しくて「大変よく出来ました」と思わず拍手をしたら、年配の男性も、和尚様も「褒められた、褒められた」とにこにこと喜んで、その素直な喜び方にまわりの皆がまた和やかに笑って・・・

やはりお念仏者、やれば出来るのであります。本堂の外も大切な修行の場ですね。「なんのためのお念仏ですか・・・・」、お互いの到らぬところをお互いが支えあい、お互いを高めていける仲間として集団生活が送れる、お別時に致しましょう。お念仏を致しましょう。

まだまだ到らぬ、善光寺の裏方の私ですが、これからも多くの方がお別時に参加してお念仏のご縁を深めて下さることを願っております。

南無阿弥陀仏

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