宮腰 悦子
Fさんはニューヨーク大学に学娘さんが帰国されることになり、迎えに来ておられたと言うことでした。「私が治してあげましょう」と言って下さり、一週間ほど治療して頂きましたので、体調は良くなりました。ところがFさん曰く、「どうしても良くわからないのは、貴女の体です。他の人に比べてグチャグチャ、こんなことは初めてです。自分の師匠筋に当たる方に伺って見ますので、お名前、住所、生年月日を書いて下さい」と言われました。そのお師匠さんは岐阜県の「天照山」と言う所にお住まいのようでした。
そして、帰国なさった直後、Fさんから電話が入りました。Fさんは興奮気味の声で「成田空港からまっすぐ天照山に来ました。いいですか、良く聞いて下さい。天照山曰く『この女性は観世音菩薩に守護されている。彼女はおじいさんから預かった観音様を赤、白、紫、青、金で描かれた花柄の布にくるんで押し入れにしまっている。一刻も早くそれを取り出してその身の側に置くように。その光を浴びるように。また、それを多くの人に見てもらいなさい。そうすれば沢山の人を救うことになるでしょう』と仰ったんだけど何のことだか判りますか?」とFさん。「ええ、わかりますとも、わかりますとも、おじいちゃんの観音様です。日本の家の押し入れにしまい込んでいるんですが・・・」と私。
「ああ、よかった。私もお役目を果たせました。言われたようにして下さいよ。さようなら」
私はびっくりしてしまいました。私の生年月日や名前だけで。しかもニューヨークに住んでいるのに、船橋の家の押し入れにしまっていることがどうして判るの?
早速、船橋の家を守っている娘に電話をかけ、事情を説明しました。かなり時間がかかるだろうと思っていると返信がありました。
「捜したわよ。でも無いのよ。それで何回も捜して気がついたの。お母さんの説明がまちがっているかも知れないと思って・・・。そしたらありました。お母さんは白い布に包んで棚の隅に置いていたのだけれど、その前にきれいな花柄が描かれた和紙を貼ったクラフトボックスがあってね、きっと透視なさったんじゃない、その方は」。「透視って、あなた・・・」と私。「この世はなんでもありなのよ」と娘。
この娘が小学生の頃、『トムは真夜中の庭で』と言う本が世に出て、私たち親子は時や空間がずれると言うことをよく話し合ったものでした。
その当時、私には奇妙なことが次から次へと起こりました。いつも娘に話しますので、やがて娘が大学生になる時、物理の勉強をして、少しでもそれを解明してあげようと言って物理学を専攻しました。そして卒業する頃には、「この世には何でもありと言うことが判りましたので、私のお役目は終わり。別の道に進みます」と言って別の分野に進みました。
何でもありと言ったって、私は娘のようにあっさり認めるわけにはいきません。一ヶ月後、日本に戻って、半信半疑でクラフトボックスを眺めたところ、赤、白、紫、青で描かれてはいますが、その菊の花たちには金がありません。やっぱり、と思ってその箱を斜めにしたところ、菊の葉の葉脈がキラリと金色に光って見えました。ニヤニヤして見ていた娘は「脱帽、脱帽。お母さんの負け」と言いました。
未だに、頭の固い私はぼんやりと、ファジーに物事を見ることができません。人間の思考で、五感を通して理解しないと落ち着きません。
しかし、このことがあってから、素直に仏様に向かえるようになりました。大宇宙に生かされている自分の存在のありがたさが実感できるようになりました。
更にあの時Fさんは「この観音様はまた、たくさんの人たちを救って下さるでしょう」と言われたことを思い出しました。
ニューヨークの家の玄関から続く広間には、モデルハウスとして展示されていただけあって、燭台、彫刻品、小テーブル等、様々の装飾品が所狭しと備わっていました。そこのスポットに我が観音様をお掛けするだけでそこは清々しい空間に変わりました。アメリカ人の友人でさえ、ホーリー・プレイス(聖なる場所)だと言いました。来客が多い我が家では多くのひとが観音様に手を合わされました。その中には若いご夫婦でしたが、その坊ちゃんが大きな事故に遭われました。生きているのが不思議なくらいの事故でしたが、それが無傷で助かったのでした。
また15年来、赤ちゃんに恵まれなかった友人は謙虚で信仰心の厚い人でした。この観音様に巡り会って、まもなく懐妊されました。そして玉のような男児を出産されました。しかもお告げつきだったそうです。
こんな風にいろんな出来事のさ中に、一足先に神戸に帰国していた夫から至急帰国するようにとの連絡を受けました。夫は郷里の滋賀県、長浜市の市長選に出馬するよう以来されたのでした。そして10年間のニューヨーク生活と多くの人達に別れを告げ、日本に帰ってきました。ここ長浜は“観音の里”と呼ばれるほどたくさんの観音様がおられます。風光明媚な琵琶湖の景色は太陽の様子によって変わるのです。ニューヨークのハドソン川流域の景色とよく似ていて全く違和感がありません。
一ヶ月した或る日、知人は近くにある国宝の観音様(渡岸寺十一面観音)に初めて連れて行ってくれました。有名なあの美しい観音様です。案内者の説明を聞いている内にそこに座っていた私はほんの二分程度ですが熟睡してしまいました。
「奥さん、立って下さい。そこにあられるとお客様の邪魔になります」「あらあらすみません。私としたことが・・・」と立ちあがろうとすると、大きな男性の声が頭の中に響きました。
「お前の体は私が必ず守る」と。「え、えっ」あたりにはそれらしき人影は見当たりません。もう私には判っていました。この声前にも一度聞いたことがあるし、赤ちゃんを授かった彼女も大きな男性の声だったといいましたから、きっと観音様の仕業です。
ニューヨークから長浜に帰る二年ほど前に、私はドクターから思いがけないことを言われました。「あなたはC型肝炎に感染していて、今や肝硬変も最重度、何時ピタッと死んでも不思議ではありません」と。道理でこの20年間体調がすぐれないのはこのウイルスのせいかー。そこでC型肝炎に“椎野肝太”と名付けて共存を計ることにしていました。もう少し仕事をさせて方が良いとお考えの観音様、なんとウイルスまで見えるのですね。あれからもう8年になります。今では同じ年の人より元気に過ごせています。
私の任務は毎朝観音様にご挨拶をして、「行ってきます。どうか今日もたくさんの子供達に光を。そしてお守り下さいますよう」と行って出かけます。毎日元気で子供達にお話会を届けます。県下の全ての保育園・幼稚園を一巡し、現在は二巡目、通算七百回となりました。二歳の子供達が50分もきちんと座って聴いてくれるのが不思議で。
これらの幼児は八百日くらいしか、この世で過ごしていないので、多分、別の次元で私と会っていた人達と思うのです。
時には、中学生にもお話を届けます。凄いファッションをしている子もよく話を聴いてくれ、心を寄せてくれるのはおばさん冥利に尽きます。
「心眼」と言う言葉の意味もだんだん判ってきました。いつも心の中を空っぽにして、自分の欲を抑えて、周りの人が幸せであればそれで良し。他人のために働けるは我が幸せ、風となって大空を吹き渡っていよう。
叔父や母がいつも言っていたこと、つまり、祖父、諦玄さんもそんな風に考えていたのでしょう。美しきを変えず、私もまたそうそうと参りましょう。
私のたった一つの望みは「偏依辨聖」さんとはどなたかを知りたいのです。そなたかご存知ないでしょうか?