内藤 規利子
あちらこちらの方から病気の体験記を書くようにと発破を掛けられながら、気後れがして書けず3年以上。きりがないので覚悟を決めました。人生には三つの坂があると言います。上り坂に下り坂、そして「まさか」の坂。「まさか」の坂はあったのです。
平成22年のお正月。いろんな行事をすませ、やれやれと思った5日、左の膝のお皿が痛くなり、次ぎの日は右のお皿、次々とほぼ体中の骨が痛くなりました。1月12日に50年以上38度の熱は出たことがないのに、38度を超え、「これは大変だ。」と病院へ行くと「風邪でしょう。」と。採血をして痛み止めの注射をし、お薬を頂いて帰宅。注射が切れると、骨々が痛いこと、自力では立ち上がれない。「死にたくない!」の一念で生きてきたけれど、「こんな痛いなら死んだ方がいいや」と思いました。
次ぎに行くと、血液検査の結果「何ですかこれは? 免疫力なんてゼロですよ。すぐ大きな病院へ行って下さい」と特別に便宜を図って下さって、その日に大病院へ行くことができました。運良くすいていて、いろんな検査ができ、そこでは「膠原病の疑いあり」でした。検査結果は「膠原病どころではありません。悪性リンパ腫の疑いで、早いと2週間で逝きますよ」と言われ、リンパ腫にいい大病院を紹介して下さいました。
「2週間で逝くと云ったよね」と主人に言うと、「言ったよ」と。やっぱり言ったんだぁ……。下の妹が「姉ちゃんと義兄さんだけでは心細いだろうから」と義弟と一緒に病院へ行くように取り計らってくれ、車に乗せてもらい1日付き添ってくれ、大助かりでした。いろんな検査の結果「悪性リンパ腫」と判明。細かい検査のため即入院。
息子と嫁に「迷惑をかけないように努力してきたけれど、こんなことになってしまってゴメンネ」と謝ると、息子は「何の彼のと言わずに、とにかく治すことだけを考えるように……」の一点張り。
嫁は「迷惑なんて思っていません。そんなこと言うより早く元気になってください」と、前年に旅行した時の孫達の楽しい写真を大きく引き伸ばして持って来てくれ、何かと気遣ってくれました。
娘はお母さんとのお別れがこの時かなと覚悟したそうです。彼女は若い頃のスキーでの怪我が原因で膝の大手術をしました。翌年、金具を外す手術、そして1年8ヶ月間のリハビリで通院し、「完治した」とのことで喜んだのも束の間で私の発病。
「お母さんには子供の面倒も見てもらった。子供も大きくなった。私の膝も手術なしで、あの痛い膝で生きて行くことはできなかった。私の膝も良くなった。お母さんが今まで待っていてくれたような気がする……」と言い、私もいろいろあってそんな気がしました。娘婿もよくしてくれました。
お隣のベッドには娘と同じ年のお嫁さんがいらっしゃって、「もう駄目かもしれない」と言う私に「プラス思考でいかなくっちゃ……、人は生かされているんだから……」とか、いろいろ励まして下さり、その内「お母さん」と言って面倒をみて下さいました。
入院してから告知まで「もう、自分はこの世ともお別れかも……」と思っていたせいか、うとうとして目が覚めると「ああ、生きていたんだ!」と何度も思い、棺桶に入っていることすら感じていました。
主人に年賀状を持って来てもらい、「これはお葬式に来て欲しい方」、「これは喪中のハガキを出して欲しい方」と分けました。
この頃はお葬式のやり方が様変わりして、どれを選んでいいのかわからず、近くに住む妹に話すと、「私にまかせておいて!」と言ってくれ、ほっとしました。その内、左右の親指が痛くなり、「どうしよう! 字が書けなくなったら……」
薄紙一枚も痛くて持つのがやっとでした。痛みが無くなった時、こんな幸せはない! と思いました。
一月二十九日、主治医の先生に主人と呼ばれ、「癌告知」「悪性リンパ腫」「ステージⅣ」「治癒は無理、無い」「延命するだけです」「抗癌剤治療で寛解するまで持っていきたい」と。抗癌剤治療で3から5%の人に即死亡のリスクがある、などいろいろの説明を受け、何枚もの「同意書」に痛い指でやっとサインをして抗癌剤治療が受けられることになりました。取り乱すこともなく(普段は泣き虫なのに)、受け止めていました。
癌告知の他にも私から提供された資料がこれからの治療の研究に役立つとのお話もあり、私は普段から微力ではありますが少しでも人様のお役に立ちたいと思っているので、自分が治療している間にでも、どうやらこれからの患者さん方のお役に立ちそうだと感じたので「私がこうしている間にでも、人様のお役に立っているのでしょうか?」と伺いました。すると「その為に僕達が一生懸命やっているのですから……」とのことで、「そうかあ、病気になっても人様のお役にたてるんだ!」と嬉しく思いました。
私は健康おたくでした。それが癌になるとは……
何じゃこりゃ 健康おたく 癌になり (駄川柳ですが)
本人は勿論のこと、回りの皆がまさか癌になるなんて。私はボケたらどうしよう! なんて心配していましたがボケる前に癌とは……
癌告知 それでも夜景 変わらない
涙で滲むこともなくきれいでした。その窓から毎日朝日を拝みました。
親戚関係、友人方、大勢の方がお見舞いにきて下さり、上の妹が「今日は整理券出さなきゃいけないくらいじゃない?」と笑ったくらい。自分でもおかしいんです。死ぬかも知れないと思っているのに元気なんです。何時もの私ならパニックになって収拾がつかなくなっていたことでしょう。きっと仏様が助けてくださったのだと思います。
上の妹が「姉ちゃんがこんなになって(うなだれる)いたらどうしよう! って思って来たのに家にいる時より元気じゃない」と。娘も「お母さん、癌になってからの方が元気だよ」と言い、自分でもそう思いました。
お念仏のご縁に会っていながら、何の彼のと取り越し苦労、持ち越し苦労のマイナス思考で人生は暗く、自分は心配お化けだと思っていました。
それが癌になって、生きるのが楽になったのです。娘に「蜘蛛の糸にぐるぐる巻きにされた羽虫のようだったけれど、動かせるようになって楽になったよ」と言うと「でも、まだ『足が……、足が……』って感じだよね」と言い、「本当だわよ」と大笑い。
その後、蜘蛛に羽は大丈夫だったけど足をぐるぐる巻きにされ、動けない蝿がいるのを見て、「羽ばたけて楽になったって足が動かせなかったらダメだわ」と言う現実を見せてもらい、身につまされ学びになりました。
(つづく)