伊藤 よし子
私の祖父母である伊藤元衛、きくよは嘗て、長野県の普門寺村に住んでおりました。今も諏訪市にこの地名が残っております。この祖父母は非常に信仰心が厚く、特に弁栄聖者のみ教えに深く帰依しておりました。真剣にお念仏する祖父母の姿が今もありありと目に浮かびます。
私は東京生まれの東京育ちですが、戦争が激しくなり女学校の時に祖父母の所に疎開しました。このことによって、私は仏様とのご縁を頂くことになりました。
と言いますのは、祖父母は毎年、唐沢山別時の後、自宅に田中木叉上人のご光来を賜り、村中の人々を集めてお念仏とお話の会を催しておりました。
お座敷と客間の襖を取り払い、黒板も準備されておりました。毎回、30人から40人が集まり、かなり広い部屋もぎっしりと詰まっておりました。
参加者の大半はお年寄りでしたが、若い私と親友の花岡こうさんは何時も、最前列に座を占めて熱心にお話を聞きました。 花岡こうさんもこれをきっかけに今日まで熱心にお念仏を続けておられます。こうさんとのご縁は女学校に転校し、不慣れで心細い思いをしていた私に親切に接して下さったことから始まりました。この時以来、親友となり、法友となり、その関係は今日まで続いております。
やがて終戦となり、私は東京に戻りました。両親は海苔とお茶を扱うお店を営んでおりました。京浜急行の立会川駅の駅前商店街に位置し、現在も営業しております。
一人娘の私は主人を迎えて家業を継ぎ、今は息子がその任を担っております。
従って、私はこの家で人生の大半を過ごしています。
この家に長年に亘り、田中木叉上人がご説法にお越し下さいました。この例会は月に1回か2回ありました。家族はもとより、親戚、従業員が参加しました。従業員も参加できるようにと夜に行われていました。
木叉上人は矍鑠としたお姿で、夜遅くまで熱心に道をお説き下さいました。あのお姿が今もはっきりと目に浮かびます。
そして、来られる度にいろんな書画を残して下さいました。現在、我が家にはその数々が残っております。時々取り出しては当時を懐かしく思い出しております。うた(詩)であったり、絵であったり、いろんな手法で私達をお念仏に導かんと願っておられたお心に対し、ただ、ありがたくひれ伏したい思いです。
今振り返ると、うら若き女学生時代から80才を超えた今日に至るまで、お念仏と言う一本の糸に貫かれた、ありがたい人生であったとつくづく思います。この糸を紡いでくれた祖父母の存在こそ、私にとって大変貴重なものでした。祖父母の住んでいたあの懐かしい家は現在公民館としてお役に立っているそうです。
また、駅から唐沢山阿弥陀寺に登る途中、左手の丘に立つ瀟洒な建物、それが当時の二葉女学校で、花岡こうさんとの出会いがあった所です。
上諏訪は我が家のルーツの地でもあり、青春時代の思い出の地でもあり、何より仏縁を頂いた心の故郷でもあります。こんな思いが、私を毎年、唐沢山別時に誘ってくれるのだと思っております。特に私に仏縁を結んでくれた祖父母への感謝の気持ちで一杯です。
伊藤よし子さんの紹介
伊藤よし子さんは東京光明会(一行院……八木季生台下)の時代から今日に至るまで 関東支部の会員として、熱心な信者として、活躍して下さっています。
とてもハイカラでパリ・コレクションから抜け出てきたような洗練されたデザインの洋服で、私達の目を釘付けにされることしばしば。それくらいお元気な方です。
特に、先々代様から田中木叉上人とのご縁が深く、ご家族あげてお念仏を相続されてきています。かねがね木叉上人のご遺墨を是非みなさんに紹介したいと言うお気持ちを話しておられましたので、去る5月13日にお宅を訪問致しました。
お宅は鉄筋4階建てのビルの1階がお店、その4階に居住されておりました。
エレベーターで4階で降りて驚いたのは、何とビルの屋上に小さいながら日本庭園があり、お玄関も和風に設えられていました。
茶道を嗜んでおられるだけに、立派なお茶室もありました。
お部屋には木叉上人のお軸や短冊、色紙が沢山掛けられていました。一つ一つの作品について、その思い出を語って下さいました。
(註)一通りの写真を撮りましたが、帰って現像しましたら、光の反射があったり、光線が不足等で、とても残念でした。不出来ながら1枚のみ紹介しました。
後日、そのご遺墨に興味があり、撮影できる方があれば、お申し出頂きたいと思います。
(植西)