山本 サチ子
私の生まれ故郷は福島県の会津磐梯山がそびえ立つ猪苗代湖のすぐ近くにあります。風景のとても良い場所です。当時、私はまだ中学生でした。兄弟は姉が四人、兄が三人の8人兄弟でした。大勢いた兄弟も皆東京や神奈川の方にそれぞれ移り住みました。結婚や就職そして大学進学等それぞれの道へと進み家を離れていきました。
それからは末っ子の私と両親の三人暮らしが始まったのです。そこに一匹の猫が加わり毎日の生活に潤いが出て楽しい日々が続きました。そんな中、父は三毛猫のミーコをとても可愛がっていました。ミーコは三毛猫独特の模様で毛の白い部分が多くあり他の色とのコントラストがとても綺麗でした。ミーコは父が好きだったようです。寺の住職である父はいつもきちんと正座をする習慣が身に着いていました。動かず正座する父の膝を狙ったのはミーコでした。膝の温もりとクッションのきいたポジションは絶好の昼寝の場所だったのでしょう。猫が膝にいても父はいつも念仏を唱えていました。念仏を子守唄にミーコはすやすや眠っている日課でありました。
そんな毎日を過ごしていたある夜、寺の檀家の男性がひどく酒に酔い父を訪ねてきました。その夜はその男性はお寺に泊まることになったのです。夜も深まった頃にミーコが父の寝ている部屋と隣の部屋で眠っていた客の男性の部屋をひどくあわてた様子でいったりきたり往復し始めたそうです。しまいには父の肩や顔を引っ掻き大騒ぎで父を起こしました。「ミーコどうした」と父は叫び跳び起きました。ミーコの誘導で隣の部屋に行くとそのとき部屋は煙が充満していました。掛布団を取ると炎が上がったそうです。バケツで何杯も水を掛け火事は未然に防ぐことができました。
布団と畳一畳が少し焦げた程度で事は済みました。その当時は喫煙に関して現代程うるさい時代ではなかったけれども寝たばこは行き過ぎの行為であったと思います。
それからのミーコはこれまで以上に家族から愛され健やかな日々を過ごしていました。寺の裏山などあちこち家の人の行くところをニャーニャーと嬉しそうに付いて歩きました。天気の良い日は庭の豆柿の木や杏の木に登り私を見下ろし「どうだいここまで来いよ」と木の上でニャーニャーと鳴いている様に見えました。ミーコも私達家族も幸せな日を過ごしていたのです。そんなミーコがある日出産をしました。ミーコは少し様子が変でした。それは子猫への母乳が足りなかったのでしょう。生まれたばかりのまだ目も開かない子猫に台所から自分の大好きな卵を口にくわえて子猫に与え食べなさいといわんばかりに促しているのです。ミーコのその必死な動作から余計に体調の悪さを感じさせられました。父は産後の回復が悪いと思い獣医の診察を受けさせましたがその手当もむなしく数日後ミーコは亡くなりました。私達家族は皆で泣きました。
あれから数十年以上経った今でも私からミーコの思い出が消えることはありません。挫けそうになったときや辛いときにいつもミーコを思い出すのです。
ミーコが火事から家を救った勇気ある行動と子猫への必死の思いが今でも私の脳裏に焼き付きついています。この二つの出来事は私をほのぼのとした気持ちにさせてくれます。なによりもミーコから勇気と力をもらいました。
ミーコを思い出すたびに私はつぶやくのです。「あっぱれミーコ ありがとう」……と
ミーコが居なくなりあんなこともこんなこともと思い出は尽きませんでした。
けれど父の膝の上で念仏を聞いて育ったミーコは人間に負けない程に感謝をしながら死んでいった様に思います。アルバムを開くとミーコの幸せそうな顔がそう語っている様な気がいたします。