花房 尚美
私は7年前(2008年)唐沢山お別時にご縁をいただきそれ以来、福岡県芦屋町大願寺での毎日9日の勉強会そして17日観音寺・慈眼寺でのお念仏会にもそのご縁をつながせていただいております。
大願寺の勉強会は11年目を迎え、毎月大和先生の貴重なお話をうかがっておりますが、私は7年前から参加させていただいております。
最初はお話の内容も難しくよくわかりませんでしたが何か包み込まれるような空気が心地よく、毎回清々しい気持ちになれて帰っておりました。
今もわからないまま、お育ていただいております。
先日、ある納棺師の方がこんな話をされていました。
一人の男の子が学校の帰りに、トンボを見つけ捕まえて帰りました。家に帰るとお母さんが「かわいそうだから逃がしてやりなさい。」と言うので、男の子はトンボを逃がします。トンボは嬉しそうに空へと翔(飛)びたちました。男の子も嬉しくなってお母さんの所へ走って行きました。お母さんに知らせたかったのです。
台所へ行くとお母さんが、ゴキブリをバシッと叩いて殺していました。
男の子にとってトンボもゴキブリも同じ昆虫です。トンボはかわいそうでゴキブリは殺してもいいという感覚がわかりませんでした。
今私達はこの物質世界でそれぞれが孤立した存在だと思ってしまいます。目に見えない所で全てがつながり共に生かされているという実感を忘れがちです。
個人主義の中、人間に都合のいいものと悪いもの、もっといけば自分に都合のいいものと悪いものとに分けてしまいます。つながっている実感が無いので都合が悪いとすぐに排除してしまい、しかもそこに何の痛みも無くなっているというのが怖いところです。
ついこのあいだ知り合いの写真家の方から一枚の写真を見せていただきました。躍動感のあるギタリストの方の写真でしたが、顔の部分は影になっていて髪とギターと手の部分に光があたっていました。私はなにげに顔は暗くて見えないと思っていたのですが、次の瞬間その写真家の方が、「顔は見えにくいですが、よく見るとちゃんと写っているんです。」と言われ、ドキッとしました。
本当にちゃんと見ると顔がわかりました。
どうしても光の部分に目がいき影になっている所を見落としがちですが、しっかり見れば、そこにも存在があります。
影があるので光が見えるように、光と影はひとつです。ですから見えていない、見ていない所も光り輝いている所と同じだけの存在があります。
さらには、弁栄聖者のいわれるよう無碍光に照らされているわけですから、遮るものは無く影も光も同じようにこの如来様の光につつまれています。全ては輝き、しっかりとはっきりと見えるはずです。
如来様の目、智慧の目で見ると、もはや光も影もひとつにとけます。いいも悪いも、それは自分にとってのいい悪いなのかもしれません。
日々の生活の中で如来様といつも一緒にいられるよう見失うことのないよう、ただただお念仏させていただきたいと思います。
合 掌