矢野 美紗子
今回は、自分史上初めて経験している「猫と暮らす」なかで考えたことについて書かせていただきたいと思います。
まず、私が猫と暮らすようになった経緯を簡単にご説明したい。私と猫(ポン子といいます)との出会いは、光明園で生活させていただくより前だ。恐らくだが、大学院受験を決めた約3年前、受験の報告をしに来た時である。その際、縁側にエサを準備してもらい、それを狙っているポン子を見かけた。当然私の近くまでは来なかった。その後、引っ越し前の2月ごろに遊びに来たときも、夜食事の後に見かけた記憶がある。
光明園に住まわせていただくようになってからは毎日ポン子を見かけた。ペットを飼ったこともなく、動物に慣れておらず、特に猫好きでもなかった私だが、さすがに毎日顔を合わせていると愛着が湧いてきた。何より一緒に暮らせる予定だった祖父がいなくなってしまった寂しさを癒やしてくれたなぁ、と振り返ってみて感じる。最初は距離感がつかめず、無理に触ろうとしたりしてひっかかれたり、怒らせたりしてしまった。しかし、だんだんと私も触れ合い方を学んで、仲良くなった。それからというもの、ポン子の行動範囲は、庭、台所、リビングと広がっていってしまった。今では夜中や豪雨時に留守番ができるようになるまでに成長(?)した。ハクビシンと喧嘩をして血を流して帰ってきたり、洗濯ネットにくるめて病院に連れていったり色々なことがあったが、例会の度ごとに、私よりもずっと猫に詳しい「猫マスター」の諸先輩方のアドバイスもあり、ポン子との生活は安定したものになってきた実感がある。
さて、一般に「犬は飼い主に忠実で、猫は勝手気まま」などと指摘されているが、これについては大いに納得した。話しかけると返事はするし、怒ると動作を止めるし、気持ちが通じていないというわけではない。ただ、彼女は「私に気を使っている」素振りがまるでないのである。仕事を家に持って帰って忙しなくしている時に、やたら甘えてきたかと思いきや、遊ぼうとすると、そっぽを向く。そんな時に「毎日ご飯を食べさせてあげているのに。」と不満に思い呟くと、母に「ポン子にはそんなこと関係ないよ。」と指摘された。
ところで、私は以前から、「どうして人間というのは不満を覚えるのだろうか」などと考えてみたりしている。ポン子との例で言うと、「猫が自分の思い通りに行動してくれない」ことが私に小さな不満を抱かせた。つまり、大げさに言うと「私の思うようになれ」という一種の傲慢である。気になって傲慢という言葉について辞書で調べてみた。「偉いのは自分だけだというような気持ちでなんでも自己本位に行動する様子」と、ある。(新明解国語辞典第四版)自分の思い通りに行かないことに対して、不満を覚えることを傲慢、と呼んで良いのだろう。そして「自己本位」とは、傲慢さを考えるための鍵になるキーワードである。「自己本位」な考え方は実に恐ろしい。表現が行き過ぎかもしれないが、それは極端に「世界は自分のために回っている」という錯覚にまでなりえてしまいそうだ。
ちっぽけで未熟者である私は、「どうして思い通りにいかないのだ」という気持ちがどうしても日常生活で芽生えてしまうことが多い。しかし、考えてみると、思い通りに行かないことの方が、きっと人生においては多数を占める。思い通りにいかないことを嘆くよりも、自分自身がそれを受け入れ、(というと少しおこがましい)流れに身を任せるほうが、自然できっと良いのではないのだろうか。
生きていく環境や世界はきっと自分だけのものではない。世界は自分のために動いているわけではないし、一個人はone of themだ。そんなことを考えていると、自分の思い通りに物事が動いていかないことの方が、むしろ当たり前のように思えてくる。おおきいものに覆われているあたたかい世界の中で、一個人として生かさせてもらっているのだから。
吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」の中で、コペル君は、デパートの屋上から街を見下ろし、車や電車、通りゆくたくさんの人々を見て、「自分を広い広い世界の一分子」だと感じた。それに気づいたことは、彼の大きな発見であり、気づきだった。
話がどんどんと逸れてしまったが、自分の思うように物事が運ばないことに不満を覚える態度は、生きていく上で適切ではないということを、自分の思うように行動しない猫を通して考えたのである。
しかしながら、今日も会社帰り玄関に立つと、ポン子が「お帰りニャー」と玄関まで迎えに来てくれることを密かに期待している。もし出て来なくても、不満は覚えない。