光明の生活を伝えつなごう

光明主義と今を生きる女性

光明主義と今を生きる女性 「お念仏とお茶と」

花岡 こう

光明園を寄付なさった松井様の奥様はお茶を教えていらっしゃいました。

ある時、例会に伺いましたら奥様が「今日は例会が終わりましたら、その後で皆様にお茶を点てて差し上げたいと思いますので、花岡さんも手伝ってください。」と頼まれました。建て替え前の旧い光明園は庭が広く、表の広い通りまで続く、よく手入れされたお庭でした。窓の近くに立派な藤の木があり、花が咲く頃は花房が重く揺れて、よく香っておりました。その頃の事だと思います。玄関を入りますと、突き当たりの和室二部屋が襖がはずされ、大きい広間となり、そこが念仏道場となっていました。

田中木叉上人様のご法話と念仏が終わりますと、大勢の参会の方達がこの部屋にぐるりと車座になりました。松井様のお弟子さんと私は協力して、張り切ってお運びを致しました。まだ若かったのです。

一番に田中上人様に差し上げました。近くの方が「お茶は何流ですか」と私にお尋ねになりました。そうしましたら、田中上人様がにこにこお笑いになりながら、「私は無茶苦茶流でございます。」と冗談を仰って、それは美味しそうにさりげなく召し上がって下さいました。緊張していた坐が一変し、楽しい雰囲気になり、私もとてもほっと致しました。田中上人様のいたずらそうな笑顔が今も忘れられません。「楽しい雰囲気になり、よかったですね。」と松井様とも喜び合いました。

河波上人様も学生時代からずっと、裏千家のお茶を習っておられ、大変お茶には造詣深くいらっしゃいました。私は一度もお手前を拝見したことはありませんが、上人様のお手前に憧れてお茶に入門なさった方が何人もいらしたとか・・・。お噂ですが。

光明園でもお茶の教室があり、お上人様も楽しまれていらっしゃいました。

お上人様は1979年にヨーロッパ十三ヶ国の修道院を巡られました。修道院でもお茶のお手前をなさったそうです。その所作がミサの儀式とそっくりで驚かれたと言うお話をよくお上人様からお聞きしました。見事なお手前だったと思います。

東洋大学の教職員茶道部で出版されていた冊子に先生の書かれた『真茶』が掲載され、そのコピーを何回も送って下さいました。お茶の世界が仏教と深くかかわり合いこれほど奥深いものとは知りませんでした。

『真茶』が単行本として出版された時、お上人様はそれを裏千家先代家元鵬雲斎宗匠にお送りになったそうです。

お忙しい方なのでお読み下さるとは思っていらっしゃらなかったそうですが、暫く経って京銘菓とお茶に添えてお手紙が届き、「じっくり読みました。」と言う丁寧なお言葉にお上人様は大変恐縮されておりました。また、学習院大学の講義でも「真茶」が使用されているとの事でお喜びになっておられました。

唐沢山別時では河波上人がご導師として上がられるようになって、毎年お上人様にお茶を点てて差し上げることができました。「このような霊場でお茶を頂けるなんて最高ですね。」と、いつも少年のような笑顔で喜ばれました。本当にお茶がお好きでいらっしゃいました。

お上人様に喜んで頂けただけで私はお茶に携わっていた甲斐があったと思いました。

田中上人様がよく仰っておられました。「お念仏なさいませ。二人でも三人でも集まって続けてなさいませ。弁栄上人様の真価がわかるのは百年たってからです。百年で更に発展するかどうか分かれ目です。念仏なさいませ。」そのお声が今も耳底に残っております。

百年と言えば気の遠くなるような先のこと、私の生きている間には来ないと思っておりました。何と、今年はその百年となりました。

百年忌の盛んである事を心からお祈り申し上げます。

清神茗一杯※上の書は愛知県法城寺に所蔵されている弁栄上人筆の額。神とは精神または心気のこと。茗は茶木でお茶のこと。『墨場必携』の解説には「茶を一椀すすれば精神を清くするという意」とある。中国唐代の詩人の廬同の茶歌に「一椀 喉吻が潤う(喉が潤う)。二椀 孤悶を破る(悶え苦しみから解放される)。三椀 枯腸を捜るに惟有り文字五千巻(萎縮していたお腹が蘇り数多の経が浮かぶ)。四椀 軽汗を発し平生の不平の事尽く毛孔に向けて散ず(軽い汗がでて不平不満がなくなる)。五椀 肌骨清し。六椀 仙霊に通ず(仙人の霊的世界に通じていく)。七椀 喫し得ざるなり、唯両腋の習習として清風の生ずるを覚ゆ(もう飲まなくてもただ清風が吹き抜けていくのを感じる)」と。茶道の心の深まりを七段階に説いているが、弁栄上人もまた、念仏三昧による心の深まりを七段階(念仏三昧七覚支)で説いている(『百回忌記念墨跡仏画集』より)。

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