光明の生活を伝えつなごう

光明主義と今を生きる女性

光明主義と今を生きる女性 長女

山本サチ子

 外出しようとしていると携帯電話が鳴った。高校時代の同級生からです。以前、ひかり誌にも載せて頂いたことのある「仏教をもっと知りたい」と言っていた級友からの連絡でした。先月の二月に私の姉(長女)が亡くなった件についてでした。

 「緑川先生が亡くなられたことを新聞(福島民報)で知りました。」電話から聞こえる声が少し緊張しているようです。「僕は小学生の時に先生にお世話になったので告別式に出席したいのです。」…と言います。その高校生時代の級友は小学生の時、私の姉の教え子でした。姉は隣村の小学校に勤務していました。姉からその級友の話は聞いていましたが、その彼と会ったのは高校生になり同じクラスになってからのことです。そんな教え子の彼が小学校の時の担任の告別式に参加したいとの連絡は、実に驚きであり、嬉しくもありました。

長女の人生

 昔、私が小学生の頃に、姉の言いつけを無視した時など姉はよく自分の担任であるクラスの児童の事を言いました。彼は親はいないけど私などよりはるかにきちんとしていると言います。グチとも皮肉ともとれる台詞をよく言われました。私は姉のことばに負けずに反論しました。「みなそれぞれ違う家で育っているのだから仕方ないよ、私だって朝の仕事、学校から帰宅すると境内の草むしりやジャガイモ堀、猫と犬の食事の世話等、友達よりいっぱい手伝っている。なのに他の子供と比べるなんて変だよ。」すると姉は「理屈ばかり言ってまったく可愛くない子…」と。
 そんな時は決まって母が出てきて「もうやめなさい!」と間をとりもちました。「お寺なんかに生まれなければもっと自由に友達と楽しく遊べたのに…嫌だ!嫌だ!」と内心で思いましたが姉には言いません。ことが面倒になるのです。
 姉とはそんな思い出が沢山あります。姉は私を自分の子供と思っているのか長女としての責任を自覚してのことなのか、うるさい注意ばかりしていました。その反面、時間があればよく私のスカートやブラウス等を手作りしてくれました。冬には機械編みでセーターやカーディガンを編んでくれたりもしました。怒ってばかりいる姉でしたが私はその時は少しだけ感謝したものです。

姉と湯治

 ある三月の春休みの日、姉が湯治に行きたいと言いました。ついては一人では話し相手もないので私に同伴してくれと言います。すかさず断りました。しかし、彼女のしつこさは毎日続きます。母は私にヨッチャン(長女)は身体があまり丈夫じゃないし、それに湯治は身体に良いのだから同伴するよう私を説得したのです。私が小学校三年生になろうとしている春休みのことでした。
 私と姉は“中ノ沢温泉”に到着しました。毎日、温泉に五回位入り、残りの時間はお隣の部屋の人達とトランプや挟み将棋をして遊び、時間を潰したのです。けれど湯治は大人ばかりです。挟み将棋も大人がわざと負けているのが判るのでつまらない。「あああぁ!もう嫌だ帰りたい」その思いが長女に通じたのでしょう。朝、私を起こす時の長女の声が今まで聞いたこともない猫なで声で私を起こします。「サッチャンご飯よ」なんとこれが姉の声か? 家にいる時はおんどりの絶叫するような声で私を怒鳴っていた人と同一人物かと耳を疑いたくなりました。
 頑張り過ぎる長女は兄弟姉妹から敬遠されていました。彼女の一途さが煙ったいのです。三十半ばでやっと結婚した長女は自分よりずっと若い元気のいい中学校の体育教師と結婚しました。両親のあの時の嬉しそうな顔が忘れられません。両親は「やっと嫁にいってくれた」と大喜びしました。

両親が体調を崩す

 母が入院して数年後、父は寂しそうでした。姉はそんな父をお寺に一人にすることは駄目だといい、彼女は勤務する小学校を早期退職しました。それからは毎日、父を檀家に送迎し、病院への通院等も全部こなしました。寂しそうな父に、母への面会をさせるため病院まで車で片道三十分の道のりを毎日のように送迎したのです。
 姉が父に「お父さん、今日は私、用事があるから病院行きは休みます」と話すと「分かった」と答える父の姿が寂しそうだったと姉は語っていました。母が亡くなった後も父だけ寺においてはおけないと最後まで面倒をみました。長女は子供の頃の兄弟姉妹にとり、それはそれは怖い存在でしたが長女のひた向きさには敬服いたします。私の娘が一歳で“はしか”に罹った時も長女はすぐに駆けつけてくれて「この子は私が見る。すぐに仕事に行きなさい」と私に言ったのです。そんな長女の思い出が語り尽くせぬほどあります。
 長女が亡くなる少し前、川越在住の姉(四女)と私は福島の長女の入院する病院を訪ねました。口数は減っていましたがそれでも顔を見ると喜んでくれました。何よりも驚いたことは長女の表情でした。それは今まで見たことのない長女の顔でした。まるで観音様のお顔です。長女の娘はこの総合病院に臨床検査技師として勤務しています。長女の表情を姪に話すと、「美容師さんが髪の手入れをしてくれたからかなあ?」と言います。いや、まさしくあの顔はまるで“観音様”であったと思います。

結 び

 長女の偉業を私は真似ることはできない。私にとって長女はまるで“武士”のような存在でした。新型コロナウイルスのため、急遽四十九日の法要が中止となり、今、私は“為先会のユーチューブ”で送信されてきた音声に合わせて念仏を称えています。九十一歳の人生、もっと苦労が顔ににじみ出るのかと思ったが実に穏やかな顔でありました。私はただ遺体に合掌して、「本当にお疲れ様でした」とこころで呟きました。どうぞ安らかにお眠りください。今まで本当にありがとうございました。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

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