山本サチ子
土の中には沢山の生物がいます。私はあまり虫が好きではありません。けれど、てんとう虫は害虫を退治してくれるから好きです。こんな都合の良い話はアブラムシにとってはたまったものではありません。そんなことを考えていたら「宮沢賢治」のあの雨にも負けずの一節が浮かんできました。
雨ニモ負ケズ 風ニモ負ケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモ負ケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク決シテ怒ラズ イツモシズカニワラッテイル ……
◆私が小学生であった時分、国語の教科書で「雨にも負けずの詩」を目にしたときは衝撃でした。このような人間が世の中に実在するのであろうかと疑いました。私は幼い頃、おそらく毎日の様に父からお釈迦様、善導大師、そして法然上人の方々の話を繰り返し聞かされていました。話を聞くたびにこの三名の方々は特別で今の世の中にはそれを実行する人間は存在しない。それは教義の中の人物であると考えていました。けれども教科書に載っているのであるから、でたらめではないはずです。小学六年生の頭の中は葛藤が続きました。考えても仕方ない。頭の中で終止符を打ちました。その時は将来「宮沢賢治」が自分の生き方に関係してくるとは夢にも思いませんでした。
〈宮沢賢治〉 ― 賢治と国柱会 ―
◆大学四年生の時、卒業論文に「宮沢賢治」についてと論題を決めました。研究室の先生から「国柱会」を研究するようアドバイスがあり、そしてその指導は実に丁寧で納得のいくものでした。私は「宮沢賢治」を卒論のテーマにしたことを「河波定昌」先生に報告しました。すると先生は『宮沢賢治を取り上げるのならば「法華経」を読まなければ全体をつかめないですよ。少しでも多く賢治を理解するには「法華経」は必読です。』と仰います。不安に思う私に河波先生は―『岩波文庫から出ている文庫本で読むのが良いでしょう。これなら手軽に電車の中でもどこでも読めるのではやく読めます』…と淡々とおっしゃるのでした。内心、私は『これは大変なことになった。』…と思いました。気軽な気持ちで河波定昌先生に報告したつもりが大きな課題を頂いてしまったと不安が広がったのです。自分の頭の中で実は宮沢賢治を「ピンポイント」で素早く書きまとめようと考えていたのです。しかし河波定昌先生のおっしゃることは最もであります。自分がとても小さい人間であることを痛感しました。
①〈国柱会本部を訪ねて〉
◆国柱会本部は江戸川区の一之江にあり、1884 年「田中智学」師により創設された法華宗系在家仏教団体です。後任である代表理事の「高知尾智耀」師を尋ねたのは「法華経」を読んだ後のことです。国柱会を訪問するためにはやはり法華経は必読書でした。河波定昌先生のアドバイスの有り難さを認識することになりました。国柱会理事の「高知尾智耀」先生はとても柔和なお方でした。事情を説明させて頂くと、喜んでくださり賢治が国柱会に出入りしていた当時(国柱会本部は当時は上野にあり)のことを丁寧に話し始められました。受付で簡単に資料を渡されるだけと考えていましたがこの対応は嬉しく実に勉強になりました。月刊誌(真世界)を頂き、一時間程話した記憶があります『貴重な時間を申し訳ございません』…と言う私に、先生は『気になさらずとも好いのです。宮沢賢治という人物を勉強なさりよい卒業論文に仕上げてください』と言います。突然訪問した自分を丁寧に対応してくださいました。相手にされないかもの覚悟で訪問したはずが驚嘆でした。未熟者の私に親切にしていただいたことは今でも有難く私の心の財産になっています。
②〈宮沢賢治の生家を尋ねて〉
◆私は夏休み始めに岩手の叔父を尋ねました。そこを拠点に宮澤賢治の生家を訪ねることにしたのです。叔父は父の弟であり私の訪問をとても喜んでくれました。浄土宗の寺の住職である叔父は中学の教師でもあり忙しい日々でしたが宮澤賢治のことを話すととても喜び賢治の生家までの道のりを詳しく地図に書いて持たせてくれました。
◆生家は立派な佇まいで武家屋敷のような構えでした。緊張して玄関を入った私に賢治の弟さんの「宮澤清六」さんが出迎えてくださいました。清六さんは柔和な方でした。ごつごつした怖い叔父様を想像していたら色白で奇麗な顔立ちの方が現れたのです。清六さんは生前の「賢治と妹トシ」さんそして賢治の文学や生活ぶり等を詳細に話してくださいました。福島県から来ましたと語る私に福島県の会津磐梯山や猪苗代湖の話題を出して『とても良い環境のところで育たれましたね』…と緊張をほぐすことばをかけてくだされたのです。『あぁ…このような優しいご家族と岩手県の素朴な環境に包まれ宮沢賢治という人物が育てられたのだなぁ…』と、しみじみ納得しました。
◆清六さんの説明通りの道をいくと花巻高校がありました。ここでもこの高校の歴史の先生が出迎えて下さり賢治に関する詳しい資料と話を聞かせてくださいました。その対応に感謝、感謝の思いでした。そこには岩手県民が一丸となり宮沢賢治を思う気持ちが表れていたのです。翌日私は従弟に盛岡の町を案内してもらい楽しい時間を過ごせたことは今でも大切な思い出となり心に残っています。
◆河波定昌先生は著書(講義録)の中で次のように言っておられます。宮沢賢治(1896~1933)も同体大悲(おもいやりの愛)の人です。賢治は岩手県の田舎で暮らしていました。その当時は日本でも最も極貧地方の一つです。子供達は貧乏のあまり小学校もろくに行けず、着る物もなくてお姉さんのおさがりを着ている男の子もいたそうです。赤い着物を着ていると友達がバカにする。そうすると賢治は自分も赤い着物を着てきたそうです。同体大悲の背景には、不二の智慧の働きがあります。相手が苦しい時に自分もいっしょになって苦しむのが大悲です。そうした賢治の日常からの行動が見られます。…(省略)そこを弁栄上人は同体大悲と言われました。そうしてみると「賢治の雨にも負けず」の詩からはやはり、同体大悲が読み取れます。
東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ……(省略)
他人のことを他人事と考えられない賢治の菩提心が働くのです。宮沢賢治の「心象スケッチ」からはすべてが同体大悲を読み取れます。
◆私は宮沢賢治の作品の感想をこの紙面で語りつくすことはできない。しかし私も光明主義を目指す以上少しでも煩悩を減らしていく所存です。山崎弁栄上人のお歌を励みとしてこれからもこのお歌を力として生きたい…
罪とがも仏の智慧にあふ時は
灯す光のあぶらとはなる
(山崎弁栄上人 お歌)
参考文献:あなたの心はなくなりて(P164、165)河波定昌講義録、無二会編