石川ゆき絵
この1年間でパソコンを見る時間がとても増えた。インターネットの普及により、新聞を読まずとも図書館に行かずとも辞書をひかずとも、すぐに知りたい情報を得ることができる。テレビは見ないわたしが遠く離れた母国・日本のことも知るのもインターネットで、だ。
しかし危険でもあるな、と昨今では気をつけている。グーグルなどで検索して情報を集めただけなのに、それらを自らの意見であり知恵である、と、履き違える人が自分を含め多くなったように思うのだ。与えられた意見がいつのまにかそのまま自分の意思になってしまっている、という危惧。
査証もせず鵜呑みにするだけの『情報』には選択がない。情報のみをコンパクトに詰め込んだ脳みその中は、想像力がなく色彩に欠け浅く狭い。わたしはいま自分の頭でものごとを考えることができているだろうか。わたしの心の目は今しっかり開いているだろうか。
『心の目』という言葉でわたしが思い浮かべるのは、サン・テグジュペリの『星の王子さま』だ。羊を描いてくれ、と、王子さまに頼まれ、羊を描いてみせる主人公。しかし王子さまはその絵が気に入らない。なんども描き直すのだがやはり王子さまは気に入らない。
困った主人公は、ひつじを描くのをあきらめて、ひとつの箱の絵を描く。「この箱のなかに、きみのほしいひつじがいるよ」と。すると王子さまは喜んだ。「ぼくの欲しかったひつじはこういうのなんだ!」。
夫がご指導を受けた杉田善孝上人は五眼の御法話の導入で『20世紀の人類の特徴の一つは、肉の眼で見えないものは無いのだ、ということだ』と、言われていたそうだ。心の目で見ることができない、ということは肉眼で見えるものしか信じない、ということだ。ここでもまたテレビやパソコンの普及も大きな要因となっていることを感じる。
心の目は閉じてしまい、肉の目のみでモノゴトを見る。目に見えぬモノは存在しない、と決めてしまう。神さまはいない、阿弥陀如来さまもいない、おばけもいない、サンタクロースもいない。
目に見えないからという理由で偉大なる存在を感じないようになると、自然に対しての畏怖の念も抱かなくなるのではないか。だからどんどんどんどん便利を求め、罪のある行為を平気でする。遺伝子を組み換え、種を管理し、取り返しのつかないモノを作る。
仲良しの日系人のおじいちゃんの口癖は「わるいことをすると、鬼がやってきて、ドーーーーンと大きい石を落とされるんだぞ」。心の目が閉じている人は、鬼なんかいないんだから石なんか落とされないよ、と言うだろう。
しかしガンジーはこうおっしゃった。
「見るためだけの目は世界にたいして盲目となる」。
星の王子さまは、またこうも言った。
「秘密を教えるよ。とてもシンプルなことなんだ。心で見るんだよ。大切なことは目に見えないんだ」。
2021年になってもコロナウイルスはとどまる気配がない。人類の危機ともいえる目に見えない禍。ブラジルは今年に入ってすぐに高齢者・医療従事者を皮切りに中国製のワクチン接種が始まった。これが良いことなのか悪いことなのかすら判断もつかないわたしの目には、ただただめまぐるしい勢いでどこかに運ばれてるという不安な感覚と恐怖がある。なぜ不安で恐ろしいのか。それは、空外上人がドイツにて学ばれた哲学者のマルティン・ハイデッカー師が人類の危機と警告していた『計量的思考』を想うから。
計算・計測によってしかものを考えることができない人間、ものごとを計量的にしか見ない視点、こういう思考の蔓延をハイデッカー師は「原子爆弾よりおそろしい」と仰せられた。
師はもうひとつ、ふるさとをなくした人間・ふるさとを忘れた人間についても危惧していた。どこに帰っていけばいいのかわからない。なにを理想にして生きればいいかわからない。帰るところがない。そういう人々が形成しているのが今の社会ともいえる。故郷をなくした人間が増え続けている現況。
日本の武士道、西洋の騎士道、わたしたちの仏道、ブラジルで浸透した柔術、どれも、こういう人間になりたいという理想において精神の鍛錬をする『道』。しかし現代の人々は数字でしかものを見ない計量的思考に陥りがちだ。計算。経済。競争。
計測できないことがらは存在しないと同じだ、とする主観で世界をみる人が増えることは平和から遠く離れるばかりでなく、帰るところ・還るところすらなくしてしまうんじゃなかろうか。
あみだぶつ。計量できない光を尊ぶ、なむあみだぶつと如来様を思うとき、その心が仏となる。はかりしれない、すなわち無量。
22歳になった娘が、わたしの話を遮ってよく口にする言葉。「もっと分かりやすく簡単に説明できんの?」。そうやね、そうできるといいんかもしれん。ばってん3秒で知ったことは3秒で忘れるかもしれん、そして自分の頭で考え心の目でみようとしたことは時間はかかっても拠り所となり礎となるかもしれん。娘が母であるわたしの在り方を軽視しているということは、わたし自身の心の目がまったく開いていない、ということでもあるなあ。如来さま助けてください、と今日も手を合わせる。
南無阿弥陀佛