山本サチ子
父や母が亡くなり、初めて親の有り難さに気がついたことが多々あります。それまでは当たり前だと思っていたことは当たり前などではなかったのです。両親のいなくなった今になり思うことは親の有り難さです。両親や地元の人々からは多くの学びがありました。如来様はいつも側についていてくださいます。このことは両親から教えられたと思います。そして実家を離れて生活するようになってからはそこで暮らす周囲の人たちからたくさんのことを学びました。お蔭様で日々の生活を無事に過ごすことができています。有り難いことです。
〈昔と今〉
社会全体を振り返ると大切なものとは何なのか、東北で生活していた頃と今とでは少し違ってきているように感じます。それは何と言っても「大いなるもの」に対する「畏敬の念」が軽くなってきている気がするからです。目に見えるものだけを信じ計算されるものだけを信じる風潮が顕著になってきているように見受けられるのです。物事を合理的に考え進められがちな世の中で「無量」とか「大いなるもの」等と説明することが如何に難しく、人々に受け入れてもらえるのかとても疑問であります。何だか気の遠くなるような気さえします。しかしながらこのようなことをことばに囚われず行動で示していけば少し違ってくるのかもしれません。それはたとえば、ある人が自分の大切な人を失った時のような悲しくとても受け入れられない出来事や、仕事で失望しているような場合等には温かい救いの手が必要なのではないかなと思います。一般に受け入れられて頂けることは人が困った時の「差しのべる手」なのではないでしょうか。具体的にはやはり「人に寄り添う」気持ちであるのかな?と考えています。教義を得意とする人は教義という「ことば」を使う方法でもよし、また「優しく寄り添う」行動でもよく、悲しみや社会の重圧から脱却させること等、方法は多々あるはずです。一番怖いことは他人に無関心になることではないかと思います。関わり過ぎも嫌われるかもしれません。人が何を求めているのかを見極めて接することが重要となります。コロナ禍の世の中になり、まる二年が経過しました。それまでは電車に乗り自分の行きたい所へと自由に動いていました。ところが行動を制限されて自分の置かれている周りの人々と色々と話すようになり、これまで目をむけなかった多くのことに気が付きました。自分の近くにこんなに悩んでいる方がいたのだとはじめて知りました。自分が楽観的に物事を考えていることも手伝ってか、これまでに気付かないことが多かったのだと思います。
〈大いなるものへの育み〉
それは幼い時からの環境のなかで少しずつ育まれていくのではないかと思われます。自分のことを振り返ると小学生になるまでは毎朝母と仏様のごはんとお茶をあげることが日課でした。小学3年生位からは私が一人で仏壇に運びます。お茶は毎朝父が入れてお盆に入れ持たせてくれました。本堂に何かをお供えしなければならない時は特に冬は大変であった記憶があります。お菓子や果物等を頂いた時は最初に仏様にお供えしてから頂きます。一日に何度も仏様に手を合わせます。それはお寺である我が家だけでなくクラスの友達も皆同じことを言っていました。「仏壇に供えてから食べるのだと父親に強く言われているの」…と話します。周囲の友人宅は農家が多く「お米が取れたときや大きなカボチャや白菜なんかも仏様の前に新聞紙を敷いて供えるんだよ!ありがとうございましたと言いながら…。来年もたくさん採れます様にと手を合わせて拝むの。」と数人の友人から聞かされていました。当時はあの日常が当たり前でした。ご先祖様の写真をたくさん飾り仏壇や仏式を大事にしていたのです。そんな日常の田舎での生活を思い出してみると両親から教えられてきたことが当時の生活から分かるように思われます。田舎では自然と直接触れる生活でした。特に農業に携わる人々は自然にたいしても畏敬の念を持っていたのでした。口で話さなくと太陽やお月さまに手を合わせること等を毎日の生活の中で子供たちに畏敬の念を伝えていたのです。
現在の郷里の人達の話で多いのは、ご子息が東京で暮らしているためなかなかお墓参りに来るのも大変という相談も増えていると実家の寺の住職は話しています。そんな現状が続いています。
〈結び〉
郷里の生活を振り返ると仏壇だけではなく、実は神様も大切に祀られていました。仏壇に供える時は必ず神棚にも同じように供え物をして手を合わせていたのです。それが当たり前でした。また、神仏ではありませんがどこの家でも父親の存在は大きく怖いものでした。仲良しだった友は言いました「いつもお父(オド)はおっかねえげんとおたふく風邪で熱出したとき優しかったんでたまげたぞえ」と。
現在ではたいていの家の父親が優しくなり子供にとっては都合が良いかも知れないけれども何か忘れ物をして来ているようにも見受けられます。子供の頃自分は優しい父親だったらどんなにステキだろうと友人の父親に憧れたこともありましたが、今では怖い父親の存在が家を守り家族を守り神仏を守ってきたのではないかと考えるようになりました。一年を通しての村の行事(お盆やお祭り)もこれまで共に暮らしてきた人々はそんなところからも「大いなるもの」に畏敬の念をいだくようになったのではないかと感じます。これからは神社仏閣、学校、地域等が総合してこれまでの先祖さまが築いてきた道を守っていくことが大切な気がいたします。そういうことが現代人の救いにもつながるのではないでしょうか。
故郷の盆踊りの笛の音を思い出すとき山崎弁栄上人がアコーデオン(注)を弾き手賀沼周辺を子供たちと歩いておられたお姿が目に浮かびます。合掌
(注)-弁栄上人が御使用になられたアコーディオンの一つが、現在、光明園で保管されています。