山本サチ子
世界にコロナ禍の問題が生じて以来、私は「幸せ」ということがとても気になりだしました。世界中が外出もままならぬ世の中になってしまいどんどん自由が奪われていく気がします。改めて人の幸せについて考えさせられることになりました。それまで普通に外出していたことや、当たり前に自分の動きたいように行動していたことが阻まれると人は生きづらさを感じます。幸せと一口に言うけれど、幸せとはどんな時に感じるのか、コロナ禍を通して考えるきっかけを得たと思います。日常生活がままならぬようになると、とても不安な気持ちにかられるのです。この不安の中で心地よさを探さなければなりません。コロナ禍により私自身は今まで気が付かなかった身近な小さな幸せをみつけることが出来たように思います。それは小さな日常生活の中にあると思うようになりました。これまで外にばかり目を向けていたけれど、案外身近な所に答えがあるように思います。
〈幸せについて〉
コロナ禍により自分を含めた世間の人々の幸せ感が少しばかり見えてきたように思います。コロナ禍の騒ぎが起こる少し前、私はぼさぼさ頭が鬱陶しくて美容室へと向かいました。そこは小さな美容室で美容師さんが一人で店の経営をしています。ドアを開けるとすでに年配の女性がほぼ素敵なヘアースタイルに仕上がりつつある様子です。そのご婦人のセットが終わるまで雑誌をパラパラめくりながら待つこと10分程、その間に二人の会話が聞こえてきました。話がとても弾んでいます。二人は熱く語り合っていました。
お客の御婦人、「私は毎日心配事が多くてね、今日は髪型を変えて気分転換したくてここに来たのよ! これで気分が少し晴れましたよ。」すると美容師さんが素早く話に滑り込みました。「○○さんなどはお金持ちで財産は沢山あるのに心配事など無いように見えますけども…。」お客「とんでもないです。我が家では固定資産税に苦しんでいます。これでおじい様が亡くなったら今度は相続税の請求が来るのです。次から次へと心配事が増えて困っているのですよ!」。即座に美容師さんは言葉を返します。「なんて素晴らしい悩みなのでしょう!。私もその悩み経験してみたいです。」するとお客さんは、「素晴らしいだなんて、私の毎日の生活は自由になるお金など少しもなく、毎日農作業の繰り返しなのよ!。農家に嫁いでから今日まで自由も無かったしサラリーマンの下へ嫁いでいたらもっと幸せだったのかもしれないわねぇ…。」すると美容師さんが言葉を返しました。「○○さんは充分幸せですよ。それは無いものねだりかも知れませんね。私からみたら羨ましい限りですよ…。何も財産もなく毎日日銭を稼いでいる私などより税金を数億円も払うなんて凄く恵まれていますよ」。女性の美容師さんの言葉は相手の方を励ましているようでもあったし実に羨ましいと思っているようにも見えました。この二人のやり取りを聞いて私は、「幸せってなに…」と思いました。 お金や財産を沢山持つことなのでしょうか? それとも心の拠り所として精神的に満たされることなのでしょうか? 農作業と税金の支払いにビクビクして自由がないというお客さん。そしてその人を羨ましいと語る年配の美容師さん。この二人のちょっとした会話から幸せが何かを考えさせられたのです。この問題はこの地域に住む大農家の悩みであるようです。この御婦人は毎日農作業の他にもマンションの経営や駐車場の賃貸料などの管理等もありとても多忙な日々であると語っていました。
さて、先日、八百屋に行った時のことです。私が「ごぼうをください」と言ったら、お店の女将さんが「ごめんね今日はごぼうが入らないのよ。青森県産のごぼうを発注してるのだけど入荷が明日になるのよ。ごめんね! 地元の農家が作ればいいのだけれど、この地域の農家はごぼうなどは掘り起こしや出荷までがとても大変だから作らないのさ! 東北の人はそれにくらべりゃ生真面目だよね。消費者にいきわたるようきちんと作っているのだからさ。寒い地域の人は辛抱強いのだよねぇきっと!」と口早に言います。この方はそんな風に考えていたのかと東北出身の私はまるで自分が褒められたような気がして少し嬉しく思いました。私は「ここで仕事していると寒いでしょう」と女将さんに声をかけてみました。すると八百屋の女将さんは「寒くないよ! 私は今日までこのお父さんと二人で頑張って来たのさ…有難いねえ丈夫で働けて!」と言います。八百屋の主人が柔和な顔で手に果物をにぎり側に立っていました。二人ともふくよかな体つきです。ふっくらした体型の様に心もやわらかそうに見えました。その時、私は「ああ! ここに幸せがある…」と何とも言えない「和み」を感じたのです。このような場所での会話の中にも人々の背景が伝わってくるものなのだと社会の縮図を見た気がしました。
〈本当の幸せとは何〉
美容室や八百屋のこの二つの会話を聞いただけでも人々の日頃の幸せ感が見えてきます。コロナ禍になり世界が一変したと思われる中で、私は毎日の家事や庭の花々や少しの野菜の手入れなどの中にも今まで自分がこれまで気が付かなかった幸せを感じています。取るに足らないことと考えられがちかもしれませんが、今私は日々の生活で静かな自分の幸せを味わっています。また音楽や、読書、他の娯楽を生活に取り入れた毎日は実に楽しいものです。自分にとって真に生活を楽しむためには娯楽を単に趣味としてのみ行うだけではなく、自らの作品などを楽しみ究めることの肝要さを重んじて毎日を過ごしたいと願っています。そうした生活がこの混沌とした世の中を渡るために少しでも役に立つことかも知れないと思っています。周囲の人々からもその様子が少しばかり見えてきてる気配がします。けれども、帰省が叶わぬことで、故郷、福島への懐かしさが募るばかりです。
猪苗代 湖水に映る磐梯の
紫紺の姿 永久にとどめむ (自詠)
しかしながら私にとって人生の一番の出会いはやはり「山崎弁栄上人」その方なのです。山崎弁栄上人の御教えに出会わなければ今の自分は無かったと思います。大乗仏教・浄土教・光明主義の壮大な御教えの空間で光明主義の視点から霊性の開発をお解きくだされた諸上人さまに感謝すると共に、光明会を支えて下されたすべての皆様に感謝いたします。なんと言いましても光明主義は近代的人間像とは異なる人間中心主義を脱却した人間像を目指しています。華やかにみえても肝心なるものが欠落していては「理想的人間像」すなわち「菩薩像」を目指す御教えは成就できないと考えています。これまでの法話で幾たびも教えられてきました。けれどもこの御教え、「菩薩像を目指すこと」は私にとって大きな重圧となることもよくあります。しかし念仏を申せばどんな苦境も乗り越えていくことができるというこれまでの御教えを信じて精進したく思います。そして私を念仏の世界に導いて下されたこれまでの全ての方々に感謝するとともに「今を生きる人生の糧、心の杖」としてこれからも念仏の実践に励んでいきます。いま日々の生活が幸せと感じることができることは山崎弁栄上人の御教えが基本にあるからです。私を光明会に導き御教えを教授して下されました全ての方々に感謝いたします。
あみだほとけの 法のいと
心の玉に つらぬきて
みなもろともに のちの世は
同じはちすの身とならば 合掌