光明の生活を伝えつなごう

近畿支部だより

近畿支部 平成20年4月

弁栄聖者ご生誕別時念仏会

江島 秀法

◇日時 2月17日(日)午前10時から午後3時まで
◇場所 大坂・地蔵寺
◇導師 川端勝教上人(山口県 長命寺住職 光明修養会評議委員)
◇参加者 30名

日程

午前 晨朝の礼拝・念仏・法話①
午後 念仏・法話②・念仏・回向
聖歌 聖者御降誕歌・如来讃・のりのいと

ご法話の要旨

川端上人のご法話は、十二光のうち「清浄光」をテーマとされた。

今日の情報化社会においては、情報を一般の人が得るのに一番早いのは今でもテレビであるが、パソコンにより情報を得ることが多くなった。しかしながら、この情報を我身に得るのは、今も昔も六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)である。オギャーと生まれて初めはきれいであった(浄)が、成長と共に情報の蓄積によりだんだんと汚れていく(不浄)。

初めに眼根について、鹿児島の税所敦子さんの例話。敦子さんが嫁がれた頃、姑さんは近所の人に「やかましや」と言われるくらい難しい人だった。そんな姑さんがある時、「鬼婆々なりと人の云うらん」と下の句を作り、敦子さんに上の句を作るように言われた。敦子さんは直に「仏にも勝る心と知らずして」と上の句を作られたという。眼に見えていた不浄の心も仏心により浄らかな心に変わらせられた訳である。『如来光明礼拝儀』中の「清浄光」に「如来清浄光明に 我等が塵垢はそそがれて 六根常に清らけく 姿色も自づと潤ほるれ」とある通りである。

次に耳根に於いて。人間は人間の不浄の心が働き、たとえ良き忠告でも聞きたくないという壁が耳にできてしまう。特に他人の事となると他人の汚い処(悪口)ばかりを聞くのをばかりを聞くのを好むようである。それが清浄光に照らされてみるとお慈悲の音と聞こえるようになるのだから有難いのである。

『古今和歌集』第一六九番の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかされぬる」の歌がある。人生を四季にたとえると、15歳の春から子育ての夏を過ぎ、やがて初老の秋を迎え、いつまでも若いと思っていたが実は年をとったと気づき、そして冬を迎えるのである。秋とは人生の秋であり「おどろかされぬる」とは気づかされる事、それを信仰の秋と受け止めるのである。

聖者は「草も木もからくれなゐに見ゆるなれ 赤き目がねをかけし人には」、「野も山もるりの光にかがやくは きよきに入らしむしるしなるらめ」と詠われ、田中木叉上人は「一年三百六十五 にちにち春風ふく家に ならうなそうの掌を合わす 人の長所に目をつけて」と詠われた。このように念仏申していくうちに、六根清浄と我身がきれいになり、自づと清浄光に照らされた毎日となるのである。

感想

川端上人は自ら「遠先の長命寺」でインターネット上にホームページを開設しておられる。人生の初老ともいうべき秋を迎えられて、情報の重要性と、それが不浄ともなる危険性を認識された上でも清浄光のお話と私は受け止めた。

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