光明の生活を伝えつなごう

近畿支部だより

近畿支部 令和元年9月

近畿支部夏期別時会

佐野成昭

  近畿支部主催の夏期別時念仏会が、七月二〇日(土)午後二時から二十三日(火)午前十時まで、三泊四日の日程で行われました。会場は法然上人ご誕生の聖地、岡山県久米南町の誕生寺です。参加者は全日参加九名を含み総勢十五名で、古田上人大木で少数精鋭のお念仏が出来たように思えました。今年は去年の猛暑と異なり、雨季のままで二十六度ぐらいと過ごしやすい気温でした。

時間割

 午後二時念仏で二時半より川本剛空上人のご法話(後述)を二時間拝聴しました。四時半よりお念仏、五時半より誕生寺用意のおいしい精進の夕食と入浴休憩後、八時より念仏、九時半就寝。二日目は五時起床、五時半よりお念仏、七時半より本殿参拝。お勤めの後、ご住職より誕生寺の由来についてお話を伺い、法然上人像と対面拝観させて頂きました。八時朝食後九時から朝の礼拝とお念仏。昼食の後、一時から途中休憩を挟んで五時半までお念仏。夕食入浴の後、七時から九時まで夕の礼拝とお念仏。九時就寝。三日目起床は四時半、四日目四時。それに従って八時朝食までのお念仏の時間は長くなりました。最終日は、朝のお念仏の後、六時半ご回向、閉会式で、本殿へ移動参拝後、清掃。八時朝食と茶話会でした。

 古田上人は、「お念仏は、年々良くなっている」と最後の感想で言われました。参加者全員がお念仏に長年慣れ、まじめな人が多いのでお念仏し易かったと思われます。今年も予定通り無事お別時を達成出来、如来様、誕生寺様、古田上人と参加者に感謝したいと思いました。
 
 「遠く離れた岡山の会場に車での別時参加は、一期一会でいつまで続くか分かりません。免許返納を考えさせられます」と七十七歳の愛知県の参加者は語りました。

 川本剛空上人ご法話の「清浄光~不断光」は、この春近畿支部主催の教学兼生誕念仏会から始まった炎王光までのご法話に続いて今回は「清浄光、歓喜光、智慧光、不断光」について川本剛空上人のご法話の概要を、筆者が次のように理解しました。尚、〈 〉内は、筆者が補いました。
 以上の4つの光明は「光化の心相」と礼拝儀には記載されていますが、そのルビは「こうけ」が正しいです。光化とは霊化のことです。
 ここでの重要ポイントは、道徳と宗教〈霊性〉が分かれたものでなく一体となっていることです。今日までの浄土宗勧学〈最高学者〉は、誰も道徳と念仏を一体にしていません。そこが光明主義との大きな違いの一つです。前回教学の無礙光、無対光、炎王光を含めて十二光のほとんどは、道徳論です。通照院の授戒会でこのことを話そうと思ったのですが、残念なことに時間がありませんでした。浄土宗の著名な学者は、光明会は、「個人主義的である。共生会は、社会的である〈のでこれら二つの良さを合わせるとよい〉」と述べていますが、私は、光明会が個人主義な教えとは、思いません。なぜなら、礼拝儀は個人主義的思考になってないからです。光明学園創立も。〈筆者が思うには、不断光の「作仏度生」の度生があり、また「至心に発願す」の「同体大悲の愛を以って他に」を目指すからです〉

 「肚」の本を著作したドイツの文化使節団員のK・デュルクハイムが昭和十六年広島大学講演のため、山本空外上人の家に泊まって、山崎弁栄上人の「念仏七覚支」〈空外上人が、史上初めて深い悟りの工程が表わされたもの〉の原稿が部屋の壁に掛かっているのを見て「これは何が書かれているか?」と質問をした。上人は説明したが何度も彼は質問をし続け、広島駅への見送りの別れ際も終わることがなかった。後日手紙で続いた程の重要なものです。念仏は理屈を知るよりもそれでどうなるかが大事です。

清浄光(感覚美化)
「五根に五位ありて」と記載されていて、それら五つの位は、肉眼から天眼、個別的な慧眼、総合的な法眼および究極の仏眼に分けられている。
歓喜光(感情融化)
「如来光明讃の頌」では、人の四苦八苦を融化する喜び、二乗〈声聞・縁覚〉の真空無為の楽、菩薩の他受法楽および仏の自受法楽が記載されている。「人天自然の歓楽」の解釈で動物的なものと理性的なものと二つに解釈が、考えられる。前者は、政治家の女性問題に代表されるが、後者が好ましい。
智慧光(仏知見開悟)
「如来光明讃の頌」では、「人の常識学習智、天才(天人の表現ではない)の発明智、二乗の真空智、菩薩の道種智、仏の一切種智と分かれて現れる。料理に喩えれば、道種智は各人に料理出来る能力。一切種智は、総合的に何でも分かって料理出来る能力。
礼拝儀は本始不二ですが、浄土宗は始覚で、修行して覚る教えです。浄土真宗や天台宗は本覚で〈我々は本々覚りが備わっているという教え〉です。
不断光(意思霊化)
意思が霊化とは、肚に収まったこと。道徳が実践完成されることです。浄土宗では、これを認めていません。この時期に道徳を含んだ礼拝儀を弁栄上人が作ったことに大きな意味がありました。ここが、浄土宗と異なる点です。光明主義は、念仏と戒(道徳)が一致しています。
遭難船から20人乗りの救命ボートに20人乗って逃げている時にもう一人「助けて」と船に手をかけた場合、念仏者ならどうするでしょうか?世間で言う立派な行為、身代わりになるか?その時回向出来る人がいなくなるという問題が残るが?
二世紀の神学者テルトゥリヤヌスが、真理には、理性(世間)の真理と信仰(出世間)の真理という二重真理があると述べたように信仰的な考え方と世間の常識は変わります。 合掌

川本上人が書かれた四光の色紙を参加者は、頂きました。今回は、版木刷りで趣があります。今回も好評です。

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