平成28年近畿支部弁栄聖者ご祥当会
佐野 成昭
十二月三日(土)午前十時より午後四時まで京都山科念仏道場にて合計十二名の参加者を得て、弁栄聖者ご祥当会を開催しました。今年は聖者の九十七回忌に当たり、聖者と田中木叉上人四十三回忌および近畿の直弟子方のご回向をさせて頂きました。参加者の多くは長い経験者が多かったのですが、初心者が一名おられました。島根県向西寺住職の山上光俊上人をお導師としてお迎えし聖者のことも話して下さるようお願いし、二席のご法話を頂きました。維那が筆者、大木が橋本週平氏。
時間割は午前十時より朝の礼拝とお念仏。十一時法話、十二時昼食、十三時聖歌「聖きみくに」で始まりお念仏、 十四時よりご回向十分後法話、三時半聖歌「のりの糸」、座談会で十六時過ぎ終了。ご法話は次のように理解しました。
午前の席
今回のお話のタイトルは、「み光の中の私、私の中のみ光」でお話します。山崎弁栄上人著の本を読むとその教えは難しい。それよりも日常、お念仏して如来様から直接み光を称える毎に頂くことが大切です。
み光の花束をあなたに!その花束とは次の4つです。
1、清浄光:これはあなたの感覚を浄化してくれます。
2、歓喜光:あなたの悩みが無くなり喜びを与えてくれます。
3、智恵光:無明、つまり、盲目的意思活動から智恵を与えてくれます。
4、不断光:意思を浄化してくれます。そして、生き生きとなれます。
米国は、今物質文化の弊害に気づき、呼吸法である「マインドフルネス」が各企業に広がっています。これは、元々宗教的な手法です。宗教的な方へどんどん発展することを期待したいと思います。
弁栄上人は礼拝儀の大切なところはどこか? とある信者に聞き、それは、「今現にここに在す」と「難思光」の「至心不断に念ずれば」ですと述べたように「今現にここに在す」と信じることと絶えず不断に如来様を念ずることが大事です。
上述の1~4は、弁栄上人の十二光の一部です。十二光讃の聖者道詠を鯨岡さんが聖歌(念仏三昧楽譜)にして美しい声で歌っているのでそのCDを聴きながらいっしょに歌ってみてくださいと言われ参加者も歌いました。このCDは、お上人より参加者にプレゼントされました。その歌詞は、
一、無量光 量りなき三世の仏のかずかずはただみひとりのわかれなりけり
二、無辺光 世を照らすさとりの海はそこひなくまたほとりなき光なりけり
三、無碍光 世の人の心を照らすみひかりはいかなるものもさえぬなりけり
四、無対光 たくらぶるものこそなけれいと尊きわがみほとけの照らす光に
五、炎王光 いかばかり罪の薪はつもるとも焼きつくすなり弥陀の光は
六、清浄光 見るにつけ聞くにつけても染みやすき心をきよき光とぞする
七、歓喜光 歓びの光にあわばとことはにのどけき春の心地こそすれ
八、智慧光 みほとけのさとき光に照らしみよみな実相のすがたなりけり
九、不断光 断えなくば海水さえもくみつくす何ごとかそもならざらめや
十、難思光 眼にみえぬ思ひにもまた及ばぬは光にふれし心なりけり
十一、無称光 うれしともまた楽しとも言の葉に及ばぬ光にあふ心地かな
十二、超日月光 月も日も及ばぬ人のこころまで照らすほとけの光なりけり
午後の席
これらの十二光の不断光以外はすべて光の語があります。お念仏すると、光、十二の光明を頂きます。如来様の光は、本来無色透明ですが、光をプリズムに通せば、何色もの色が現れます。念仏も同じ。
自分は、泥の凡夫と思う時があります。自分の思いに関係なく光は来ます。自分は泥でなく、蓮の茎でなく、光の当る華だと考えれば良い。聖者は難思光で「眼にみえぬ思ひにもまた及ばぬは光にふれし心なりけり」と言っています。 浅原才市は、冬の風呂屋で「手をぬくめ足をぬくめてナムアミダ仏で心をぬくめる」と言っています。
大震災の時に本山で大切なことを話しました。それは、阿弥陀様とは何かということです。阿弥陀様は、この三昧仏様のお絵像のように、光背から四方八方に光〈光明〉を放っていてそれは、宇宙全体に届きます。また、念仏する人には眉間の白毫から光を放って我々を救ってくださいます。辛いこと、悲しみや憎しみも、記憶は消えないですが、お念仏で心は変わります。 籠島咲子さんは、当初「称えるだけの」お念仏で死のうと思った。弁栄聖者は、法話中にそれが分かり、分身して咲子さんの枕元で「仏おもいの光明を胸に…」と語った。単に念仏を称えるだけではだめ、仏おもいとならねばならない。聖者は、阿弥陀如来と呼ぶより、御親、大ミオヤと呼びなさいと述べている。法然上人も同じく述べている。生みのみおや、育てのみおや、教えのみおやと三身にも分けてみおやと語っている。
如来様のお顔をしっかりお見つめ申して、親の如く母の如くましまし、我々をいつくしみ見て下さる御親様が、かならず救い下さり、育て、永遠の命を与えて下さることを深く信じてお念仏して下さい。終わりに再度、十二光讃の聖歌を歌いました。