神戸光明会 秋の例会
植西 正裕
◇日時 平成21年11月23日(祝)午前10時~午後3時
◇場所 神戸・東極楽寺
◇講師 金田昭教上人(東京・源空寺)
◇参加者 10名
一.行事の概要
午後の部はあさの礼拝・念仏三昧・法話①、午後の部は念仏三昧・法話②・聖歌(伴奏・鈴木美津子さん)。
二.ご法話(要旨)
- 法話の主題は「信」について。信については四つの側面、すなわち苦・人・教・行とその組み合わせで考えることができるが、今回はその内の「苦」と「人」についてのお話があった。
- 人間は苦難(苦)に出会って信を得るようになることがある。これにも二つの場合があり一つは念仏を唱えるきっかけ、例えば肉親との死別や不幸などの苦難、いま一つは念仏を始めてからの苦難であり、これは円満な光明生活に至るまでのもので修行ととらえてもよい。
- この念仏を始めてからの苦難に正しく対応することは極めて大切なことであるが、ここのところが光明主義の実践において、ややもすると危険に陥りやすいところである。それは光明主義の教えがあまりにも高邁であることからこれを知識として求める方向に偏し、現実の自分(私)がどのように目標に向かって進むかという努力の面がおろそかになるきらいがあるということで、近年その傾向がより顕著になっている感がある。
- 光明主義は実践であり、私と仏様をつなぐパイプは念仏で、浄土宗の二祖・聖光上人のお言葉にあるように「行をもって心を励まし、心によって行を進める」ことが求められる。この理想としての目標と現実の間のギャップを埋めるヒントの一つに田中木叉上人作詞の「光明歌集」がある。苦難に対峙するのではなく、これを受け止めた上で全てを阿弥陀様にお任せするという他力をたのむ実践も大切である。
- 次に人に出会って信を得ることについて。人に出会うということは師や友人など現世の出会いはもとより、例えば法然上人などにおける善導大師、弁栄上人における法然上人など、時代を超えて教えを含む全人格との出会いにより信を獲得することがある。
- 如来光明礼拝儀の歎徳章の一節に「……共に歎誉して其功徳を称せられん……」とあるように、往生を得ることができれば先師・親・友などの出会いもある。このようになることを目標にして精進することが大切である。そういう意味でも浄土宗・光明主義は「情の信仰」でもある。
- 人との出会いによって信を得、歓喜踊躍して「心のあけ」を迎え、さらに光明主義による「お育て」をいただくことができるように努めることが大切。そのためには礼拝儀の内容を自分なりに実践することが必要である。
三.所感など
秋の例会は昨年まで八木季生上人を講師にお迎えしていたが、今回から同上人の直系のお弟子さんにあたる香阿昭教上人にお越しいただくことになった。これも深いご縁と感謝している。
筆者自身がここ数年光明会系の念仏会等に参加して感じていたことが二つあった。その一つは「安心の要領」と「起行の用心」という車の両輪にも相当する関係に関し、後者についての指導・話題が極めて少ないこと、今ひとつは光明歌集にふれる法話がほとんどなかったことである。今回の法話では見事にこの関心事が説明・活用されていることに大いに心を強くした次第である。
弁栄聖者御祥当別時念仏会
江島 秀法
◇日時 平成21年12月4日(金)午前10時~午後3時
◇場所 京都市・龍岸寺
◇講師 九州光明会会長・金田隆栄上人(大願寺ご住職)
◇参加者 22名
導師金田上人は、聖者90回忌のお勤めも今回で6回目となると申され、住職されている大願寺は弁栄聖者が来られたそうである。4月18日に大本山増上寺で勤められた折には、大願寺所蔵の聖者遺品が出展され、私もその折の作品集については仏縁不可思議なることを痛感した次第である。
今回の法話のテーマは光明主義の五戒であった。仏教における在家の五戒もあるが、聖者の創意となる五戒は独特である。
- ①殺すこと勿れ 汝が霊格を
- 所謂、不殺生戒には、自分にとって遠いものを殺す軽いものと、自分にとって近いものを殺す重いものとがあると言われ、蟻に始まり、飼育している動物を殺しても罪になるが、人間、その中でも両親や出家者を殺すと罪が重いのである。より近き存在としての自分そのものを殺す。自殺はなお罪になると。何故そうかというと、我身とは我がものではなく如来様から頂いたもので、本来、真実の自己に目覚めるものであり、これを殺すのは最も重い罪であると。
汝が霊格を殺すこと勿れとは、お念仏を申して、永遠の生命である真実の自己に目覚めることが人生の大事だ。田中木叉上人の『心田田植歌』にも「青い稲葉はその中に白いお米のみのるため 死ぬるからだは其中に死なぬいのちのそだつため」とあると話された。 - ②偸むこと勿れ 努力の光陰を
- 仏教の不偸盗戒に相当するが、「盗」は形あるものをぬすむ。「偸」はいたずらに生をむさぼる(偸生)、緊張感がない(偸弛)、人情うすきこと(偸薄)、仕事に行き乍ら自分の用事をする(偸身)、仕事をしても慣れてくると手抜きをするようになる(偸免)などの意があり、聖者はこちらの意をとって使われた。私共に与えられた時間というものは無限にある訳ではなく、聖者がよく言われたのは「急がねば日が暮れる」と。
善導大師の往生礼讃日没無情偈より「加灯風中滅難期(中略)各聞強健有力時 自策自励求常住」を引用され、又聖者の道詠「たまものの時のたからをいたづらに ついやす人の浅ましきかな」や、田中木叉上人の『じひの華つみうた』より、「無量寿を含む一日又となき 今日のいのちを尊く活きん」を引用されて、この世の一日は極楽浄土の百年より優るので、今現在のお念仏がどれだけ尊いかを説かれた。 - ③婬すること勿れ 天魔の使と
- 仏教の不邪婬戒だが、「婬」とはおぼれる、度がすぎる、むさぼる、みだらなことを行なう等の意があり、12月8日に成道された釈尊にもその前には「天つ魔羅が吹きおこす 百のいかづちむら雲も」(聖者『応身の讃』より)という降魔を成しとげてのさとりであったと。
法然上人が鎌倉二位の禅尼(源頼朝の妻、政子)への消息より、「諸の横脳をなす悪魔悪神のたより」がある故に、私共はいつもそれを「はらひ、のぞき給う」にはただただ如来様を信じてお念仏を申すばかりなのだと。
私共がお念仏を離れると、それこそ天魔の使と婬することになるので、聖者は、これは如来様との結婚生活なのだと言われたと。身も心も如来様にささげて念仏すれば「大光明中 魔事なし」と生活することができるし、何々しながら念仏するに非ず、念仏しながら何々するのであると話された。 - ④酔ふこと勿れ 肉と我とに
- 仏教の不飲酒戒に相当するが、聖者の考えは独特だ。弘法大師のいろは歌にも「あさきゆめみし ゑひもせす」とあり、人間生活において自我観念があるばかりで、永遠の生命である真実の自己がわからないのを酔うということだと。七仏通誡偈の「自浄其意」も引用され、私共の心を浄めるとは念仏することであり、真実の自己に目覚めて、我執を離れて自他平等の生活を生きていく大切さを説かれた。
- ⑤欺く勿れ 己が良心を
- 仏教の不妄語戒に相当するが、ここでも聖者の考え方は独特の創意がある。良心というと理性のようでもあるが、お念仏を申していくと、おのずから如来様の光明に照らされて、無礙光によって己が良心を育てられていくものだと。
それは如来様の神聖・正義・恩寵により『無量寿経』にいう「斯の光に遇う者は、三垢消滅し、……善心生ぜん」の善心即ち良心が育てられてゆくのだと話され、この五戒に続く聖者の言葉「汝が身心は我の欲を貪らんが為の器にあらず。霊我の理想を実現せんが為に与えられたるの具なり」をあげられ、それこそ念仏生活の大切さを申されて結ばれた。