光明の生活を伝えつなごう

近畿支部だより

近畿支部 平成23年1月

近畿支部主催教学布教研修会

佐野 成昭

10月15日10時より17時迄 京都市龍岸寺にて 講題「ポスト辨榮九十年の課題」と題して、佛教大学藤本浄彦教授をお迎えし、近畿支部主催教学布教研修会を開催。参加者は総勢21名、内40歳以下は4名でした。

お念仏を交え午前一席、午後二席の講義と、最後に質疑応答がありました。講義資料として先生ご執筆中の『浄土宗大辞典』の改訂原稿約9頁が出席者に配布されました。記載内容は最大公約数的なものに努めたとのことでした。資料を参考に講義の内容は以下です。

①辨榮以後90年という時間は何を意味するか?~同時代の弟子から間接の弟子へ~

について、これらの弟子に差異があり、前者は言葉を直接師の存在を通して受領することが出来、同時代の諸経験の中に信仰実践の何かが直接注入される。動的で混沌とした場合がある。後者は直接言動の体験が無く、信仰の脈鬱何かが直接注入されない。また、緊張も無い。師遷化直後の大正9年12月7日、同時代の弟子の宣誓書に、

光明主義ノ為メ万難ヲ排除シ其宣伝ト発展ニ従事スルコトヲ宣誓ス・・・
笹本戒浄・熊野宗純ほか23名の自著

のように当時のような緊張感は無い。加えて個人的経験を挟んで様々な辨榮像と光明主義理解がもたらされる。

②原点・源流への思慕を思う。~法然や辨榮の“こころ”に学ぶ~

法然上人が釈尊に抱いた思い、「釈尊の在世に遇わざることは悲しみなりといえども、教法流布の世に遇う事をえたるはこれ喜びなり。たとえば目しいたる亀の浮き木の穴に遇えるがごとし」(『登山状』・法全417頁)とあり、辨榮上人が法然上人に抱いた思い、「われらは宗祖の聖き生命、霊的人格を欣慕して止まず」(『宗祖の皮髄』14頁)という思いを学び、確かめたい。

1、原点への還帰~山崎辨榮上人と光明主義~

①山崎辨榮(1859-1920)とは?

略歴を1頁半程で説明された内、私、筆者の印象に残ったことは、上人二十四歳の時、浄土宗の学問所である檀林、東漸寺の大谷大康上人により宗戒両脈を相承し「真誉」を授かり正統な浄土宗僧侶となり、大蔵経読破専念中二十六歳の時、大恩師大康上人遷化にあたり帰山して不臥百か日の報恩別時を修されたことである。尚、浄土宗二祖上人も恩師遷化の時、48日報恩別時されている。

また、善導の「発願文」等を付録として『訓読阿弥陀経図絵』二十五万部刊行し施本された。以来『大霊の光』等の冊子から一枚ものの『如来光明礼拝儀』を二十万部刊行施本された。当時のその行為は驚嘆に値する。

1916年知恩院の教学高等講習会で『宗祖の皮髄』を講義し出版されたが、それ以前1913年九州若松善念寺にて同題で講じている。また、同年東筑浄土宗寺院教学講習会で「浄土哲学」を講じている。

1918年無量光寺の法主となり、1919年4月境内に光明学園を創設、10月は広島県潮音寺にて5日間の別時。主だった弟子を集めた最後の大説法と言われる「念仏道諦三十七道品」を講じた。(『念佛三十七道品御講演聴書』財団法人光明修養会九州支部発行)1920年柏崎市極楽寺で別時中発病し遷化された。その伝道生涯は宗祖法然上人の念仏精神を現代に復興し生かすことにあった。

②光明主義(光明会)とは

1914年『光明会趣意書』を著作頒布された。「如来という唯一の大御親を信じ。其の慈悲と智慧との心的光明を獲得し。精神的に現世を通じて永遠の光明に入るの教団」と言い、「外部の文明の長足の進歩」に対して「内的霊性が覚醒せざるべからざる暁」と捉えて「時機相応の信仰的教団」とし、「真理の大御親の聖意にかな称う清き同胞として光明の裡に生活し現在を通じて精神的に永遠の浄界に進行するを目的とせん」と述べている。

如来光明主義は「光明王を本尊とし。光明名号を称え、光明中に生活するを宗趣とす」(『光明の生活』502頁)であり、いわゆる所求・所帰・去行として言えば「みおやの光を得て光明の生活に入るを目的」(信仰の目的)とし、「弥陀尊は絶対的の中心本尊に在しまして、現在未来を通して唯一のみおやに在せば、無量無礙の光明を照らして、念仏の衆生を摂取」(信仰の対象)し、その弥陀本尊の「聖意にかない光明の中におさめらるる」ために「ただ本願の名号を称え、即ち念仏三昧をもってす」(信仰の実践)と述べられている。

信仰の目的(所求)については、「肉体ある間は精神的に光明中に生活」するとともに「命終わる時は現実的に光明土の人と為り得る、即ち浄土に生るることである」と、現世と来世の二世にわたることを指摘している。また、信仰の対象(所帰)については、「如来は見と不見とに係わらず真正面に在ますことを信じて、その照鑑のもとに精神指導されつつあることを信ずべき」であると強調し、信仰の実践(去行)については、見と不見とに係わらず一心に念仏して如来の慈悲に同化せられんことを要す」(以上同書501~502頁)と求めている。

信者(会員)の特徴として、
(1)念珠・・・弁栄上人の発案した一連二十二個の珠からなる念珠を使用。南無阿弥陀仏の要義と光明主義による三身の如来の聖心と衆生の心が合一し、十二光の珠に繋がり救われるわけと形を表した信仰生活の用具にしていることは比類の無い意義ある念珠である。
(2)『如来光明礼拝儀』・・・伝統仏教の素材を活かして新たに組み立てた和文体の勤行礼拝式を1920年に最終改訂版として製作された。その特色は、「如来光明歎徳章」と十二光仏讃礼が主な中心として見られる。他に巻末に辨榮の念仏心境を発露する道詠歌である「聖きみくに」や覚りの内容を七つの道諦で現す「念仏七覚支」等が収められている。「行は念仏の一行、理解は十二の光明」という骨組みの中で朝夕日常の勤行の中で念仏を実践せしめている。1916年五十八歳の6月に浄土宗総本山知恩院の教学高等講習会講義で「宗祖の皮髄」が出版された。これは、宗祖法然上人の念仏三昧体験を如実に捉え、起行の用心を二祖聖光の著述に置く。この講義禄の出版によって浄土宗門人から注目されるようになった。

1920年辨榮は入滅、弟子が光明会本部を設置し組織化した。1943年財団法人光明修養会の設立許可を得て今日に至っている。また、辨榮に依憑した土屋観道は真生同盟を、中野善英は一味会を結成した。戦後、杉田善孝は光明会聖堂を主宰した。大阪茨木市に熊野好月が光明婦人会館(現、如来光明会館)を設けた事等、全国各地の寺院や在家宅において別時念仏を中心に光明主義の信仰活動が現在に至っても行われている。

主な書籍としては、高足田中木叉は、辨榮の遺文を整理編集し、1923年の「人生の帰趣」出版以来、1964年の『難思光・無称光・超日月光』に至るまでの間に光明体系十四部を公刊し、1936年には辨榮伝記『日本の光』を著した。1919年11月から光明機関誌「みおやのひかり」が発刊され、昭和9年11月に休刊(復刻版『ミオヤの光』が平成元年に刊行)、以後『大光明』誌が昭和50年迄、同年『ひかり』に表題変更して今日に至っている。

2、浄土教の源流的特徴~光明と十二光仏~

①光明とは?
仏・菩薩の智慧の働きを象徴する光。真理の明るみを表し出す。

『無量寿経』では「無量寿仏の威神光明、最尊第一なり。諸仏の光明、能く及ばざる所なり」(『浄土宗聖典』一の二三七)とある。また、第十二願は光明無量の願である。『観無量寿経』には、「如意珠王より、金色微妙の光明を湧出す。その光、化して、百宝色の鳥となる。和嶋哀雅にして、常に念仏・念法・念僧を讃ず」(同二九六)、また、『阿弥陀経』には「青色青光黄色黄光・・・」と説かれている。

【光明の種別】
光明には種々の別称がある。『智度論』四七には「光明に二種あり、一には色光、二には智慧なり」(『大正蔵』二五の二二九)、また『智度論』七に「仏は時ありて大光明を放ち、大威神力を現ず」(同・二五の一一二)、その他の所々種々の経論に言及有り。
法然上人は『逆修説法』第三七日で「一には常光、二には神通光なり・・・常光は不断に照らす光・・・神通光とは、是れ別別に照らす光なり・・・阿弥陀仏の神通光は摂取不捨の光明なり。念仏の衆生有るの時は照らし、念仏の衆生の無き時は照らすこと無きが故なり」(『昭法全』二四六~七)と説いている。
【光明の利益(功徳)】
仏・菩薩の光明は衆生を照らして、衆生に種々の利益を得させる。『無量寿経』上では「無量寿仏の威神光明は最尊第一なり。諸仏の光明は能く及ばざる所なり・・・この光に遇う者は、三垢消滅し身意柔軟なり。歓喜踊躍して、善心生ず。もし三塗勤苦の処に在って、この光明を見たてまつれば、皆休息を得て、また苦悩なし。寿終の後、皆解脱を蒙る」(『聖典』一の二三七)と言い、これらの利益を得る。法然上人は、「諸仏の功徳は何の功徳も皆法界に遍くと雖も、餘の功徳は其の相顕る事なし。但し光明を有りて正しく法界に遍くの相を顕せる功徳なり。故に功徳の中に、光明以て最も勝たりと釈し給うなり。又諸仏の光明の中には阿弥陀如来の光明猶を勝れ給えり」(『昭法全』二四七)と受領し論じる。

②十二光仏とは?
阿弥陀仏の光明の働きを十二種に分けて称讃する別号で、康僧鎧漢訳の『無量寿経』下に「無量寿仏の威神光明、最尊第一なり。・・・この故に無量寿仏をば、無量光仏・無辺光仏・無礙光仏・無対光仏・炎王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏・と号したてまつる。それ衆生あって、この光に遇う者は、三垢消滅し身意味柔軟なり。歓喜踊躍して、善心生ず。もし三塗勤苦の処に在って、この光明を見たてまつれば、皆休息を得て、また苦悩なし。寿終の後、皆解脱を蒙る」(『聖典』一の二三七)とその功徳を説いている。この他の経典では十三光仏、十四光仏や二十光仏が記されている。

中国浄土教の大成者、善導は『往生礼讃偈』の日没礼讃偈で「大経の釈迦仏、阿弥陀仏の十二光明の名を礼讃して往生を願求せよと勧めたまうに依って」として十二光仏を取り上げている。

法然上人は『逆修説法』の三七日の項で十二光仏を説いている。例えば、清浄光仏については「人師釈して云う。無貧の善根処生の光なり。・・・此の光に触れる者は貧欲の罪を滅す。・・・心を至して専ら此の阿弥陀仏の名号を念ずれば、即ち彼の仏、無貧清浄の光を放って照触摂取し給うが故に、淫貧財貧の不浄を除いて、無戒破戒の罪けんを滅し、無貧善根の身と成りて持戒清浄の人と均しき也」(『昭法全』二四五~二四六)と言い、この理解には憬興の『無量寿経連義述文賛』巻中の注釈の影響が窺われる。

山崎辨榮は『仏教要理問答』や『如来光明讃の頌』で十二光を体系的に説示している。

無量光を「法身体大 処として実在せざるなし」
無辺光を「一切智相大 処として照らさざるなし」
無礙光を「一切解脱大 処として融せざるなし」
無対光を「如来の真仏土 人の最終帰処」
炎王光を「人類の理惑二性の除きて霊化する徳」
清浄光を「人の感性を美化する恵」
歓喜光を「感情に霊福を与う」
智慧光を「人の智力智見を与う」
不断光を「意思を霊化す」
難思光を「信仰を修養して恩寵を喚起す」
無弥光を「恩寵を開発す」
超日月光を「恩寵の実現に行動す」

とする。

無量光から炎王光までを宗教形而上論、清浄光から不断光までを美化・霊化・与う働きの宗教心理論、難思光から超日月光までを喚起・開発・行動の宗教倫理論として、十二光に画期的にして積極的な組織づけを行っている。

3、ポスト辨榮九十年の課題

  • 我々会員がもう一度九十年以前の原点を見つめ直しては。
  • 辨榮九十年後の我々の役割は何か?例えば、法然上人滅後百年の頃、遺文を整理し、『黒谷上人語灯録』、『法然上人行状図絵』が成立したようなことが考えられないか?
  • 明治時代『訓読阿弥陀経図絵』を多量に二十五万部程刊行し施本されている。この絵ときの手法をマンガや映像等で現代的に活用すると良いのでは。僧侶の養成時に浄土宗根本経典として学ぶべき浄土三部経をこの手法で説いては。

最後の質疑応答では念仏の万機普益についての質問があった。これに対しては、法然上人の念仏も阿波介の念仏も同じということになるとのこと。それぞれの称える念仏の利益は同じであり、如来様より万徳の光明を頂いておる。但し、一人一人顔や機根が異なるように育ちの現れ方が異なる(各々性)。

尚、筆者の感じたことで、辨榮上人は、筑波山、唐沢山、知恩院華頂山等の聖地での別時念仏を好んで行い多くの弟子や信者が育った。特に唐沢山(現在も継続)では、八十六故中村康隆猊下も中学生時代に参加し、「このような立派な僧が居られるなら私もそれ迄いやだった僧侶になろうと決心した」と猊下就任の挨拶で述べておられた。それ程の影響があった。また、唐沢山で弁護士を目指して勉学中の書生、柴武三氏も参加し、大きな影響を受け、しばらく随行弟子となり辨榮上人から多くの教えを仔細に受け、一切経も読んだ。晩年病床の田中木叉上人に懇請され、『光明主義六大特徴 無明編』(昭和53年秀英者発行)を最後に光明主義を「超在一神的汎神教、如来光明摂化主義」と表して六冊の書物を書した。この教えの最も重要な御文として以下を唐沢山岩壁に刻まれた。

唯絶対無限光壽 即ち彌陀の聖名を崇び 聖意を仰ぎ それに歸せんが為に 意に彌陀の彌を臆念し 口に彌陀を称え 身に彌陀の行動を実現す 一念彌陀なれば一念の佛 念々彌陀なれば念々の佛 佛を念ずる外に 佛に成る道なし 三世諸仏は念彌陀三昧によって 正覚を成ずと南無
(『光明の生活』第四版一七六頁および『如来光明礼拝儀』一三九頁)

◎著名な入信者として近代偉大な日本の数学者、岡潔氏は光明会開催の別時念仏に参加し、そのお陰により数学の世界的賞(フィールズ賞)を得、辨榮聖者著『無辺光』(1969年 講談社)の出版に寄与し、複数の大学教授として日本の教育界に多大な貢献を為した。また、明治3年東京で私塾を開き、日本の女子教育の草分けの一人となった跡見学園の創設者、跡見花蹊女史もいた。

尚 筆者が前期伝記や紀野一義著『名僧列伝4辨榮聖者』を読むと、辨榮上人は、乞食から知事と一歩高いが二歩高くない万人に合わせた大人格、「同体大悲」の愛の伝道の生涯であった。

合掌

弁栄聖者御祥当別時念仏会

佐野 成昭

平成22年12月3日 京都市龍岸寺にて近畿渋主催弁栄聖者ご祥当別時念仏会を下記のプログラムで開催しました。福岡県種善寺の西徹空師をお迎えし、総勢17名が集いました。

  • 午前10時 礼拝念仏
  • 11時 法話
  • 正午 昼食
  • 午後1時 念仏
  • 1時半 法話
  • 2時半 念仏
  • 2時45分 ご回向と聖歌
  • 3時 閉会

私のようなものが説教には・・・と遠慮がちに語る63歳の西徹空師のご法話は、次のように語られました。

午前中の法話

私は学生時代この龍岸寺の土曜念仏会に参加しており懐かしく思い出されます。辨榮聖者伝『日本の光』のご伝記を拝読すると、改めて凄い人だと思います。聖者には一点の私心が無い。それも尋常でない程です。明治12年21歳で出家、24歳で筑波山にこもり、25歳で一切経を読み始めたが、大康老師遷化のため百日不臥報恩念仏された。明治に大きな功績のあった大僧正、福田行誡和上が二度にわたり辨榮聖者に会おうとされるが、経拝読中は「ただ今お釈迦様に拝謁中であるから」と拒否され、百日念仏中はご遠慮され会うことが出来なかった。「謁見第一の人」と行誡和上称えた。その時の使いが、聖者に帰依された後の九州大本山善導寺の法主、広安真随師だった。また、和上遷化の時二十五条の袈裟が聖者に与えられた。

光明主義は超在一神的汎神教であるためか、『無量寿経』の記載の「無量寿」を聖者は「歎徳章」で「無量寿如来」と記載された。

「お父さんどうしてお米をあげるの?」とその子供が泣いた。そういうことがあったのは、子供は父が大変お米で苦労していることを知っているからだ。「功の多少を計り、彼の来処を量る」という浄土宗の食作法のように、「功」は農夫等の仕事でどれだけ手間がかかっているかである。米は八十八の手間がかかっていると言われている。肉牛にしても育てる手間とその命の犠牲で私が生きることが出来る。南無阿弥陀仏とお念仏するしか、それに応えようが無い。その念仏を見事に徹した方が聖者である。今年の口蹄疫では人間は牛に無慈悲なことをした。

午後の法話

聖者の食作法は天下一品だ。その中で「法身慧命」という言葉は、「色身は食を以って命とす、法身は慧を以って命とす」から来ている。これは木叉上人の「青い稲葉は・・・その中に死なないいのちのそだつため」と同じである。超在一神的汎神教は阿弥陀仏から私達が生産され、摂取されて阿弥陀仏に帰る円環の体系だから安らげる。一切衆生悉有仏性などと説いて、仏教に超在一体を立てない汎神教は、一大仏性を立てないと半面の真理に終わる(『人生の帰趣』第二章「万有生起の原因」の項)

私の父が臨終の時、孫に当たる私の娘にじいちゃんの顔を触らせた。その冷たい感覚は小学4年になった娘に残っていた。死んだスズメの生まれたての赤子を手に持って「じいちゃんと同じように冷たいね」と言ったからだ。インドで日本式のカレーライスを作ろうとしたが牛肉がないので鶏肉を買った。鳥を裁いて手渡された時、その肉に暖か味が残っていたのを感じた。念仏を称えずにはおれない。私の母は老人となって最近手が掛かったことがあった。しかし、私が幼少の頃の母を思い出した。同じ姓の子がプールで亡くなり、誤って私の家にその連絡が行った。母が血相変えて私を探しに来た。遊んでいる私を見つけたとたん、母の足元が崩れたことを思い出した。

明治45年、法然上人七百回忌の折、行誡和上の使いで九州善導寺の広安法主は辨榮聖者を寺内に二ヶ月程泊めたお客のない聖者はそこでくる日も空中に立つ如来尊像の仏画をいく百枚も描いた。仏教が数百年そこに留まる因縁にもなるようにとのためだった。そしてその後、波多野師が篤く帰依し、専福寺の丹波師に、米粒に般若心経一巻を苦もなく筆書き出来る等変わった坊主として紹介した。今でもその専福寺へ行くと聖者の残り香が感じられる。

以上、西徹空師はソフトに語られ、参加者の胸の中に何か伝わるものがあった。

合掌

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