弁栄聖者ご生誕別時念仏会
佐野成昭
◇日時:平成23年2月19日(土)
◇会場:龍岸寺
◇講師:川本剛空師
◇参加者:23名
平成23年2月19日京都市龍岸寺にて近畿支部主催「弁栄聖者ご生誕別時念仏会」を下記のプログラムで開催しました。京都府の川本剛空師(西方寺)をお迎えし、総勢23名が集いました。
午前10時 礼拝念仏
午前11時 法話
正午 昼食
午後1時 念仏
午後1時半 法話
午後2時30分 念仏
午後2時45分 ご回向と聖歌
午後3時 閉会
先月安楽寺から久美浜の西方寺に移動された63歳の川本師のご法話は、次のようです。
午前中の法話
1月30日大雪の日に依頼された御忌会の法話中に別府上人のお話をしていた時、別府上人が亡くなられた。別府上人はよく「命がけで念仏せえ」と言われていたが、今日では「命がけで」ということは仲々聞かない。
今回は弁栄聖者が大正2年に九州の光明寺と大正5年に知恩院教学高等講習会で話された「宗祖の皮髄」についてお話しする。従来お念仏をしたらどうなるかについて明確に説かれていなかったが、そこを説いている。光明寺では法然上人のご道詠十二首の引用に対し、知恩院では十首であった。前者はより厳しく説かれ、後者は余りそうでないように思われる。
まず、なぜ宗教は必要かから説かれる。
池の水人のこころに似たりけり
濁り澄むこと定めなければ
このように人の心は濁り不浄になることが良くあるからと法然上人が詠われているからだ。人の心は出あう相手や物によって決まる。例えば、百万円落ちていたら、足で踏んで隠し周りを見て人が居る居ないで心や行動が変わることがある。
欧米人は自我と法を立てて考える。日本人もそう変わりつつあるが、従来は権利を主張すると人格が疑われると考えた。具体的には、恥である、欲の忍耐がない、迷惑だとか和を乱すと考える人もいると思う。
宗教は、この歌の「澄む」のように方向づける。仏の縁を結ぶように変化させる。言い換えれば回向である。倫理学教授の山本空外上人は「出あいを生かす」と言っている。そこを弁栄上人は「三昧正受」と言うと思う。
あみた仏といふよりほかはつのくにの
難にはのこともあしかりぬへし
この法然上人のご道詠の意味はご名号を称える以外は、悪いことだという意味と、称えるだけでいいじゃないかという意味がある。なぜこのご道詠を作られたか?その理由は、ご名号は「万徳の帰するところなり」だからだ。徳とは働きである。多くの人は、本尊の仏様に頭を下げても、書かれているご名号には頭を下げない。所が、弁栄聖者は、「まるで生きている阿弥陀様に頭を下げているかのようにご名号に頭を下げた」と鈴木憲永上人から直接お話を聞いたことがある。これは聖者の心の働きが如何なる体の動きにも現れていたからだ。これ程信仰を皆様はお持ちだろうか?これを選択集より「最勝の法、最易の行」と言い、聖者は密かに「独尊、統摂、帰趣」と考えられていたのではないか?
「一切衆生悉有仏性」一切の私達衆生は仏に成れる性(質)があるのだから、そこでよく考える必要があるのでは。最近「独尊」の尊いということが仲々見られない。自己愛がよく見られる。妻は病室の夫に、娘の結婚の為に、また家のローンのために早くよくなってくれというような意味のことを話す。阿弥陀さん(父母も当てはまる)がいるから私は生きられる(私には阿弥陀様が必要だ)と聞く。自己愛の表現だ。
聖者は「極楽を願うのは、金持ちの所へ娘を嫁にやらせるようなもの」極楽や幸福は目的に出来ない。極楽往生の内、往生は目的に出来る。
かりそめの色のゆかりのこひ(恋)にた(だ)に
あふ(会う)には身をもをしみやはする
この四つ目の法然上人のご道詠の「をしみ」は、「惜しみ」と「愛しみ」の二つの意味がある。このように相手を自分のものにしたいという強い色恋を表現する僧は「何と……だ」と思われる程だが、信仰は情から入るものだ。これ程命を懸けて皆様は阿弥陀様を愛せるだろうか?今までのご道詠を学び自分を良く反省したいと思う。まだ、この段階は、皮髄の過程であり。中途であるが、今回はこれで終わり、また次の機会に続きをお話したいと思う。
同称十念