法話聴書を以下に再録してみます。
無礙光(用大 処として融化せざる無し)
如来三徳 一切衆生を解脱霊化して自由を得せしむ。
昨日話した無辺光は悟らしめる智慧の光、すなわち認識の力を与える光である。
無礙光は如来の用として一切の処に充満している。そうして神聖・正義・恩寵の三徳をもって自然に我々を霊化して下さる。一心に念仏して如来の中に融け込んでしまえば次第に霊化される。
無礙とは自由の義である。我々は自己の本能によりて、本来の本心から見れば、なしてはならぬ悪い事を敢えてする。それが解脱すれば悪から自由になってくる。それを道徳的自由意志という。加藤弘之※という人は人間には自由意志というものは無い。人は習慣とか遺伝とかの天則に絡まっていて、到底それから逃れる事はできないものだ、という風にいっておられる。
それは一心に信仰すれば如来の御力によりて自由を与えられるのである。そういう力、如来様が我々を救うて下さると、それを一心に信じた粕が抜けて、段々と善くなってくる。煩悩・性癖・習慣を解脱して霊化されてくる。
如来は一切衆生のため、道徳的の標準として至善の霊界に在して、我等の行為を照鑑し給う。仏の事を悟らせていただくのは無辺光、この我の見ている宇宙は人間の見る宇宙であって、決して宇宙全体ではない。もし我々が犬になったならば、人間よりもっと狭い世界しか見えない。それを仏の見る如く見えるようにしていただくのが無辺光である。それが大円鏡智である。すなわち
無辺光。認識の智慧(学校で習う色々の科目)
無礙光。実行の智慧(修身の科目)
実行の智慧は自己を利する力、自分を制裁する力である。法律をくぐって悪い事をする。それは認識の智慧であって実行の智慧ではない。故に無礙光は道徳道、人格の智慧である。道徳とは決して人間がいいかげんにこしらえたものではない。元来道徳には善悪はあるけれども標準は無い、そういう風にもいえる。
同じ事でも所によりてまた時代によりて善悪に分ける事がある。例えばインドでは僧は妻帯してはならぬといっているが、婆羅門の徒は子孫の無いのは罪悪であるとする。一見非常にわけが分からぬ様であるけれども、その目的から見れば何れにも理はあるのである。また彼の仇討の如きもそうである。仏教でいう道、即ち「みち」とはこの道を真直に行けば何処何処に達するという「すじみち」の事である。道を分けて四種とする。
人道 人間の行くべき道。来世は人間。
天道 天に生まれる道。来世は天人。
声聞道 羅漢になる道。悟入を要す。
仏道 仏になる道。終局は仏。
国道をどこまでも行けば終に帝都(首都東京)に達する。県道を何処までも行けば県庁に達する。人間の道を行けば人間に達する。復び人間に生まれる道もある。天に生まれるためには天道がある。彼の恨を以て恨に酬い、徳を以て徳に酬いるは人間の事である。恩を以て仇に酬いるは天の神の心を以て心とするものである。天は少しも悪を欲しない。例え彼が自分に悪を働きかけても自分が更に酬いるという事は、更に悪を一つ増やす事である。それでは天の心に反する故に自分は仇に酬いるに、恩を以てせねばならぬ。之れ天道である。更に声聞道とは天道人道を超越したる無漏聖道であって煩悩を捨てさった所である。この声聞道を辿るには、即ち羅漢となるには修行を要する。ただ悪い事をせぬ、善い事を務めてする、それだけではない。(それは天人の範囲である)真空真如を悟って生死を超越した所が羅漢道である。
(次号へつづく)
※加藤弘之=哲学者・教育家。但馬国出石藩士。男爵。東大総長・帝国学士院長・国語調査委員会長などを歴任。初め天賦人権・自由平等等を説き、のち社会進化論を唱えて平等説に反対。著「真政大意」「国体新論」「人権新説」など(1836~1916)