光明の生活を伝えつなごう

聖者の偉業

聖者の俤 No.97 乳房のひととせ 下巻46 聞き書き 其の十二(つづき)

乳房のひととせ 下巻43

中井常次郎(弁常居士)著

◇十四 柏崎

 過ぎし十月に京都の別時でお目にかかった時の面影とは全く変わり、ひどく、やつれで悼ましく感じた。熱の為に御舌はもつれ、言葉遣いが不明瞭で、お困りのようであった。それにも拘らず、何やら盛んに説法して下さった。今は説法どころではない、「上人様よ、御重態ですぞ、御静かに御養生して下さい」と申し上げたい気で一杯であった。それ故、承りたい説法に割愛し、お側を下った。
 別室で上人の御病状を聞き、直ぐ横浜の大西病院長の久賀博士に宛て、御病状を詳しく至急報で電報した。何とか都合して御見舞に来て下さるかも知れん、と思ったからである。自分は今までこの様な長い電報を打った事がない。久賀先生はお見えにならなかった。
 上人の危篤を知った信者達は遠方からも続々集まって来た。とうとう病室の入口に「面会謝絶」の紙札が貼られた。遠来の人々には洵に気の毒であった。〔中略〕〔十一月二十九日〕、土屋夫人も御見舞に来られ。笹本和尚も来られた。自分は午後一時五分の汽車で柏崎を立った。佐々木和尚が見送って下さった。笹川、辻田、二人の尼僧と自分の五人が道連れであった。〔中略〕
 〔籠島夫人の談 十二月〕四日の朝、宗尊(極楽寺の小僧さん)が私(籠島咲子様)を呼びに来た。沢山の人々が、上人様のお床の廻りに坐り、後に立ち塞がっていた。私は上人様のお側へ行かれないから、縁側でお顔を拝んでいると、上人様は私を見つけて「咲子、咲子。ここへ来い」と手招きして、枕元を指された。私はお側へ行かれない。奥村弁誡さんは「上人様は、こちらの奥様を呼んでおられる」というと、籠島先生は道を開かれた。すぐ人はその跡を塞いだ。私は無理にお側へ行くと、上人様は私の手をしっかりと握り、共にお念仏を申した。それから五分間も経たぬうちに、微笑が口びるに現れると共に、大きく開いた御眼が細くなった。とうとう御遷化遊ばされた。まことに美しい、神々しいお顔であった。
かくて上人様はこの世のお仕事を終えられたのでありました。(以上咲子夫人の口述)

はらから
 弁栄上人と寵島咲子夫人との霊的関係を知らぬ人達は余りに親しきその間柄を誤解して、上人の聖徳を汚す恐れありと思い、私は茲に「はらから」の一節を加えて、ただならぬ御因縁の一端を紹介して置く。詳しき事は「生ける観音」に書き遺すつもりである。

一、咲子夫人が弁栄上人に初めて対面されたのは大正二年の八月十四日であった。
 それから暫くして第三回目の霊感を得られた時、即ち法眼開けて浄土の荘厳を観見された時、上人は咲子夫人に向かい「今から三十三年前に浄土から三人の兄弟が、衆生済度の為に、この世界へ出されているという事を仏様から告げられた。あなたもその一人だという事が、今、わかった。けれども残る一人は、わからぬ。」と仰せられた。
 上人様は高崎市長、内田氏の奥様に「私共三人兄弟が浄土から出されている。その一人は咲子であるが、三人目の兄弟はまだわからぬ。それを見付けるのは咲子の仕事だ」といわれた。
 咲子夫人が上人様から右のお話を承った時、上人は何かの方便にいわれたのだと思った。けれどもその後、霊感により、夫人もまた、浄土から出された者だという事を知らされたそうである。

二、或時、上人は咲子夫人に「あなたを自分の子にしたいが、一人者に子がある筈が無いから、兄妹になろう。けれども、子と思うよ」といわれ、籠島さんの許を得て兄妹となった。それで上人は籠島夫人を「咲子、咲子」と呼ばれたのである。

三、上人が咲子夫人を発見された時「私は、ながらく諸国を流浪したのは、あなたのような人に廻り会い度くあったのだ」といって非常に喜ばれた。咲子夫人は総明な方であるが、祖父の主義により無学文盲として育て上げられた至誠の方である。

四、上人が御一生の間に三度まで咲子夫人に対して礼拝された事が有ったそうである。その一度は、上人が、某という悪いお供に大金を使い込まれた時、その悪人が「もし文句をいうなら、あんな者を刺殺すのは何でもない」という恐ろしいことをいった時、咲子夫人は命にかけて上人を護り、事件を無事に解決した事がある。その時上人は咲子夫人に「あなたは私を助ける為に遣わされた人だ。私は自分の命が風前の灯火である事は、よく知っていた。けれども、どうする事もできなかった。ただ、親様のお救いを待つ外なかった。あなたはその救い人であった」といい、先ず仏様に向かって三拝し、次に咲子夫人に三拝されたそうである。
 次は、咲子夫人が浄土の荘厳を拝まれた時、上人は非常に喜ばれ、仏様を礼拝して感謝され、次に夫人を礼拝された。
 三番目は、咲子夫人の念仏三昧が次第に熟し、常に仏と離れぬように成った時「もう肉身の上人様をたよりにせんでも良いから、お便りを頂かんでも結構です」と申し上げた。上人様は「そう成って貰わねばならぬ。その時を待っていた」と賞められ、夫人を礼拝されたそうである。

五、弁栄上人が最後の別時を柏崎に開かれ、極楽寺において病床に就かれた時、籠島夫人に「うちに帰って、病って良かった」と悦ばれた。
 弁栄上人はかくの如く、咲子夫人とは浅からぬ御因縁ありて、深く咲子夫人の真心を愛され、心を籠めてお育てなされたのであった。
(つづく)

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