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聖者の偉業

聖者の偉業 No.4 無礙光3

出典『観照』第9号 昭和6年3月  谷 安三師 速記

「無礙光」(前号からのつづき)

恩寵。大慈悲を以て衆生の心霊を化育し給う。
衆生性 如来の光明にて
感覚 汚 → 浄化 清浄光
感情 悩 → 融化 歓喜光
智識 闇 → 智見 智慧光
意志 罪 → 霊化 不断光

我々は今、凡夫であるから、見れば見る方、聞けば聞く方へ引かれて行って様々な汚い垢を作る。それを如来様の清浄光明によって浄化して頂くのである。

また我々の感情は悩みである。あれこれ心配をする色々な事に恐れを抱く、それを歓喜光によりて融化して頂いて、安らかな楽しい心にして頂くのである。

我々の智力は闇である。初めはその闇であることさへも分からないのである。それが如来智慧の光明によって悟りが開けてだんだんと信ずる事が出来るようになって、追々と信心の眼が開いてくるのである。

また我々は生まれたままで捨てておいたならば、性来の肉欲我欲に魅られて悪いことをする。その生まれながらの罪も、不断光によって漸々に霊化せられて消えてくるのである。そのように種々の恩寵の乳を飲みて追々と成長するに従いて、正見の眼が開いてくる。如来様の慈悲によりて悪い事が出来ないようになってくるのである。

足の起たないものは歩く事は出来ない。眼がなければお日様の光も見えない。我々も段々と恩寵を蒙りて、心の眼が開いて来るから神聖正義の父の道が解ってくるのである。そうして、その道を歩く事が出来るようになるのである。

恩寵。神聖正義というように、先ず恩寵がある。栗のイガも中身が熟してくると自然にとれてくるように、人も中身が霊化されてくると外の垢は自然に脱けてくる。そうなって来ればよし。悪い事をせよといっても出来なくなってくる。それが解脱である。生まれつきだから仕方がないと言って捨てておいたならばいつまでたってもそのままである。生まれながら悪魔も信仰によりて一部分は脱けて来るのである。丁度太陽の光に因りて一部分は果が熟する様に如来の御力によりて心霊の実が熟して来るのである。それが無礙光の力である。

我々が法身仏から受けた心には煩悩という渋を持っている。その渋を無礙光明によって甘いものにして頂くのが解脱自由である。我々は三度ご飯を頂かなければならぬ様に、我々の心には毎日毎日垢が溜まってくる。

ゆえに常にお念仏を離れずに、それに依って溜まった垢を落として頂くようにしなければならぬ。

丁度お念仏は譬えて見れば石鹸のようなものである。石鹸は垢を落とす働きを持っているけれども我々の身体にはまた直ちに垢が溜まる。ただしそれは我が身体の罪であって決して石鹸のせいではない。かくの如く、垢の絶えないのは我々の心垢を造るからであって、決して念仏のせいではないのである。

三度三度食うに面倒臭いからといって少しもご飯を食べなければ死んでしまう様に、「一辺に解脱が出来ない様な念仏なら俺はしない」と言って捨てておいたならば、心霊の命は絶えてしまうのである。

(無礙光終わり。次号無対光へとつづく)

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