出典『観照』第13号 昭和6年7月 谷 安三師 速記
「無対光」(つづき)
如来は日光にして菩薩は月の如し。新月より満月に至る。初は晦日の月の如く真闇である。無明の闇である。それが太陽の光を受けて一部分だけ明るくなる。それが菩薩である。
菩=仏 薩=有
初めて信仰の目が醒めて、永遠の生命に生くべき人生の意義を自覚したならば、その時が初発心の菩薩で、それから段々と霊化されて如来の光明中に、すなわち完全な法に進むにつれて明るい方が段々と多くなってくる。智情意ともに進んで
智 の方からいえば、悟りが深くなってくるに従って、すべての道理を知る事が追々強くなる。 情 の方からいえば、種々の悲しみ苦しみ悩みが融化せられて、安らかな状態になる。 意 その追々と増してくる道徳的意志が益々堅固になってくるにつれ、その働きも追々と増してくる。
そういう風にして一歩一歩完全に向かって進んで行くのであるが、その道は中々高遠である。その14日の月までは菩薩である。まだ菩薩、すなわち闇が消え切らない状態である。15日の月に至って初めて少しも闇い部分が無くなって仏になるのである。その一点の黒点もなくなった所が始本一致完全無欠の仏となった時である。
菩薩と報身仏との関係
報身は菩薩浄業心の所感、身に無量の相好光明あり。無量荘厳浄土に住す。
菩薩の位進むに従って所感の仏身益々広大に。
能感の心身と所感の仏身、彼此の相無きに至るを菩薩の仏道を成したりとなす。◇現代語訳 (ひかり編集室が作成し挿入)
菩薩は報身の如来様を、修行と清浄なる心を具えた結果どのように感じ見ているか。如来様のお身体は計り知れないお姿と光明を具え、また量り知れない荘厳で装飾された浄土に安住されている姿を見ている。
菩薩の位が進むに従って感じ見る如来様は、だんだんと広大なお姿になっていく。
如来様を感じ見る菩薩の心と、如来様のお身体、この二つの区別がなくなる無対の境地、これが菩薩道の成就である。
仏身は無限である。ただこの方が有限の心をもって観ておるが故に有限の仏身が現れてくるのである。
蝿がいくら立派な家の中にいても、その立派さが分からない様に、いかに宇宙が無量無辺であっても、自分の心の範囲でしか受け取る事が出来ない。ゆえに有限となる。その方の心が大きくなるに従って、現れきたる仏身もまた益々大きくなる。終に自分の心が本覚に合致して天地法界に充満したならば、また無量無辺の仏の心を我が心とする。そのところにおいて能感の心身と所感の仏身と彼此の相無きに至る。それが本覚に入った時である。
本覚に入って無量無辺の心になって初めて、無限の宇宙無限の如来を如実に知る事が出来るのである。
始覚とは初めて仏性が醒めた状態である。
本覚とは自分が造るものでなく、本源の都、もとの故郷に帰りつくのである。
子供が成長して立派な親まで到達した状態である。本来からある所の本覚に自己が合致するのである。その時に初めて「仏が我か我が仏か」というような境地に達するのである。仏と絶対に自分が合致するからである。
しかし、その時に如来と自分との区別がなくなって、如来様がなくなってしまうかというと決してそうではない。やはり本来の親様は親として厳然とましますのである。それを自分が仏になれば如来様がなくなると思うのは、聖道門の哲学的立場である。
(無対光完)