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聖者の偉業

聖者の偉業 No.10 清浄光 五根浄化

出典『観照』第17号 昭和6年11月 谷 安三師 速記

清浄光 五根浄化

生来染汚せる感覚を浄化して六根清浄となす

我々人間は進歩した動物であるだけに多く磨かなければならぬ素質を持っている。同じ石にしても天然石は磨く必要は無いが、貴い宝石になればなる程磨かなければ本当の価値は現れてこない。我々の生れながらにして持っている五官の欲、即ち五欲は汚染している。釈尊は仰せられた。人間の五欲を擅にして棄てておくのは火を放って棄てておくよりもなお危険であると。罪悪の根源はこの感覚欲、即ち五欲からくる。古人も「口をして鼻の如くならしめば人も罪を造る事が少いであらう」といった。実にこの五欲を擅にしておけば恐ろしい事になる。ゆえに我々は常に馬の轡を執る如く、五欲を制しなければならぬ。

五欲とは色、声、香、味、触である。これを五塵ともいう。また自己の心がその為に奪われるが故に五賊ともいう。五欲の恐ろしさは度重なるに連れて追々と習性となる所である。初めは何の興味もなかったものが度重なるに連れて終に放れる事ができなくなる。そして他の一切を犠牲にしてもその欲望の満足を遂げようとする。酒でも煙草でも皆然りである。本来吾々の機能は抵抗性を持っているが故に刺激を与えるに従ってその部分が発達して抵抗力を増してくる。ゆえにより強い刺激でなくてはこたえなくなる。もし何等の刺激をも与えない時には要求して止まないのである。そうして終には病気となり悪弊症となって子孫にまでも害を及ぼすのである。初めは有るがままに用いておった酒も度重なるに随って追々とその量を増し、今度は家に酒がなければ酒屋や買いに行っても飲まねば済まぬ様になる。その時は既に病的であって終には悪弊症となり子孫に迄も遺伝するようになるのである。

染めて悔やしやいと紫に
もとの白ふがなつかしい

故人のそうした嘆きも尤もである。この悪いものが何によって直るか。それは信仰である。信仰によってそれに代るべきものを与えていただくのである。信仰に入ってなお酒や煙草に慰安を求めねばならぬ様ではまだ本当ではない。真の慰安を如来様に見出す時にはじめて本当の信仰である。

悪癖をや矯めるにも二つの方法がある。

一、消極的。誓をなして矯める。
一、積極的。それに換える可きものを信仰によって如来様から与えられて終にその必要がなくなってしまう。
我々はこの積極的の進んだ境地に入らなければならぬ。念仏によって禅悦、法喜、微妙の味を味う時には五官の欲におちいる事は自然となくなるのである。

積極的方面。総じていえば八面玲瓏、玉が磨かれた為に輝いて来るのである。それが即ち六根清浄である。総じて云えば此の通りであるがこれを別していえば下の五位に分れる。

五眼  五位
肉眼耳鼻舌身 人
天眼耳鼻舌身 天  神通感応
法眼耳鼻舌身 菩薩 勝妙五塵
慧眼耳鼻舌身 二乗 超感覚
仏眼耳鼻舌身 仏 国土清浄

我々の肉眼は機械である故にその機械の構造に依って大きく見える人もあれば小さく見える人もある。生理的機械的である。それが肉眼清浄となれば山の向うでも壁の向うでも不思議に徹してどこまでも分るのである。この所にこうして居てどこまでも見えるのである。また内耳が清浄になれば世界中の事が聞える。そういう風になるのが肉の五根清浄である。天眼以上の五根清浄もそれに似たもので只神通感応の力を持っている。

次に二乗の五根清浄になれば感覚を超越して何もなくなってしまった世界である。智慧の世界即真空真如の世界である。

犬や豚は我々が汚いと思う大便を喜んで食する。食う位だから無論彼等の鼻にも好い嗅いに違いない。しかし人間には耐え難いものである。皆自分自分の業によって感覚を造っているのである。しかし二乗の世界になれば超越しているのであるから人間の事が別に嫌でもない。我々は犬や豚を比較的に見ているから嫌に感ずるけれども二乗の世界ではそれを立ち越えているから別に嫌にも感じなければ、また同時に貪る様な執着も感じない。それが声聞縁覚の終局にして真空真如の世界である。

次に菩薩の法眼を開くと今までの人間としての感覚を立ち越えた二乗の境界、即ち真空真如を超越した勝妙五塵の境界に入るのである。今までの粗末な五塵が微妙な立派なものになるのである。肉眼がなければ此の世界が見えない様にここはお浄土であるけれども、それは法眼を開かなければ見えない。法眼を開いて初めて法身を見る。

仏の境界は慧法二つを合せたもののなお進んだものである。

この仏眼を開く時には一微塵の中に無量の世界を見る。いつまでもこの一微塵の中を見ていてもなお見尽す事が無い。無量の諸仏三千の世界はこの中にある。これ即ち宇宙法爾の理である。なぜならば我々のこの小さい瞳孔の中に天の星も地の有ゆる万物も皆入ってしまう。もしこの小さい瞳に入らなければ見えない筈である。夜中に水の玉を露天に出しておけば天の有ゆる星はその中に映っている。その玉が一尺の直径であろうと一分の直径であろうと乃至は一微塵であろうと凡て同じ様に映っておるのである。それが見えないのはこの方の眼が悪い為であって映っていないからではない。また肉眼に百倍する望遠鏡を用いれば百倍向うのお世界が見える。然るに我々の肉眼にそれが見えないのは機械が悪い故であって光がきていない故ではない。もしそれに百億倍する望遠鏡を用いる時はそれに百億倍する世界が現れ、またそれに百億倍する時はまた現れる世界もそれだけおおきくなる。こうして行く時は無限である。仏眼を開く時は無限を見る故に一微塵もいつまでも見尽す時が出来ないのである。露天に出した玉の中には他の世界に住む人間の有様も映っているに相違ないのである。無量の仏ましまして法を説いて居給うに違いないのである。

この無限を見る可能性は吾々は持っているのである。しかるに吾々の業職という曇りの為に遮られて見えないのである。観念の鏡心の鏡を磨きさえすれば無量無辺の世界がそれに映ってくるのであるけれども、凡夫の眼には分らないのである。それが弥陀清浄光によって浄化されて磨き出されるのである。肉の五根清浄乃至、法慧、仏の五根清浄に至って其の窮極である。それを五五二十五根清浄という。

その肉天法慧仏の五根がまた五根五識五塵と分れて七十五根清浄となる。そのまた七十五根の各々を細分すればいくらいっても尽きる時はない故に無量無辺清浄、即一切万物総清浄となるわけである。それが如来清浄光の顕現の究極であって、即ち仏の境界の国土清浄である。仏にはすべてみな清浄なのである。かくの如く人類の感覚を究極にまで浄化するのが如来光である。

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