思い出のまま
恒村常子(栄月)
子を失いて哀愁の暗に迷える一人の女は、昨年(大正8年)の春、黒山の五重にて学徳高き岩井上人に救い上げられ更にまた、同夏、知恩院のお朝事にご親切なる中川上人の力あるお説教を承り無明の暗の追々と覚め行く折から奇しき法の縁の糸は山崎上人に結びつけられまして、彼岸花咲く秋の頃、津の国法蔵寺のお別時に尊きお上人のお説教を拝聴する身となりましてより已来、昨日の悲しみの涙は今日の悦びの涙と変わりましたにつけ、上人のお徳の程いよいよ慕わしく、遂に思いを決して、良人に暇を乞い、一月二十日横浜光明寺のお別時を始めとし当麻山に清水港に、さては祖山(知恩院)の念仏三昧会まで草枕旅寝の夢も早、月余を重ぬる事となりました。思い起こすさえ尊しや、お歳六十路越えさせ給う御身にて寸時のお暇とてもなく、日常の生活を申すも畏き程のご質素にて、ある時は寒風肌を切るような利根の河畔二里余りもお歩行遊ばすかと思えば、寒さに凍る武蔵野の吹雪に尊きお身を埋め給いつつ、睡眠とてもゆるゆる遊ばすこともなく、食事の間すら衆生教化の為にみ心を砕き給うご容子をお側に侍りて拝見いたすにつけ、昔宗祖上人の御有様もかくやとばかり思い出られて尊しとも尊く、これにつけても自分の過ぎし日の心なき生活を至心に懺悔いたすのであります。
殊に永き間不束なる私に一言のお叱言も仰られず、却って種々とおいたわりとお励ましのお言葉を給わりつつ「時間を空費するな、大御親を片時も忘るなよ」と常に仰られて兎もすればゆるみがちなる心をすきまあらせじと引きしめ引きしめ教化し給うお言葉、身にしみて、有難くお陰さまにてこの節は我ながら力あるお念仏が申されるようになりました。かかるにつけてもまたと逢いがたき現し世のみ仏に在す上人のお側近く仕えまつりし身のいかなる前世の宿善にやと我ながら悦ばしく。顧みますれば一昨年五月に逝きました子は全く私をこの得難き幸福に導き給えし観世音菩薩におわしませし事と深く深く信じ、静かに称名念仏しますれば三年間の悲しみは却って今は夢の如く限りなき喜びは胸に充ち充ちて浄きみ国の再会の程頼もしく、かくまでに智慧と慈悲とに満ち給う大御親のご方便の程ありがたく覚えますと共にこの所までお導きを賜りし山崎上人、さては岩井、中川の両上人に深き感謝を致しておるのであります。
出典『ミオヤの光』二巻三号二十四頁『縮刷版』一巻七十二頁
弁栄上人ご遷化に接しての歌
恒村常子(栄月)
いたつきも御親のめくみとひたすらに
よろこび給う姿尊し
いまわまで御身をれてとき給う
恩師の君のありがたきかな
復活と宣いし言葉今も尚
胸にのこりてよろこびのわく
先の恒村氏「思い出のまま」に登場しました、岩井智海上人の聖者追悼文を次に転載させていただきます。
出典『ミオヤの光』二巻三号二十一頁『縮刷版』一巻七十二頁
宗祖之皮髄と私
岩井智海
私は去る大正五年七月朝時詰めにて知恩院にありし時、一週間上人の法話を拝聴しましたというだけのことで極めて薄縁なものであります。されどその節、聴講筆記出版の義、会衆の中に起こるや私はその意志を代表して出版発表のことを上人におすすめして快諾を得、かつ本山当路の方にも応援賛助を乞い、遂には『宗祖の皮髄』が出版せられることになったわけであります。今から思えば上人ご在世中発表相成りし著書の中でも重要なるものにして薄縁な私には尤も不思議なご縁でありました。
私は上人の高潮せられつる「法身を理仏智仏と見る哲学的見方を排して法身阿弥陀如来を立て、即ち法身を具体的大人格者となして大造物主としケーベル博士の神は絶対的人格なりというも畢竟同じこと、たとい異教徒の造物主とその根本には立て方の相違は認むるも」と見るといえる問題に向かっては未だ私は徹底すること能わず。私はこの問題を大切な問題として近頃研究を進めつつ深く上人のご指導と慈導を仰がんと期待しつつありし折柄俄然としてご遷化の報を聞き愕然として自室し真に痛惜また痛惜の情に胸ふさがる感に堪えません。
上人とは薄縁の私にしてそのご主張に徹底しかねし私にして、かくまで痛惜哀悼の情に堪えません。況してや深厚なる法縁を結び、飽くまでその徳化に浴せる諸同人のみ心を察し来たれば、衷心にご同情の念に堪えません。私は上人に対して何ものも語る資格はありませんが、ここに私の偽りなきかぎりなき心中を告白して拝弔の誠意を表します。