乳房のひととせ 上巻
中井常次郎(弁常居士)著
◇四諦 天台宗による処世観
仏教を苦、集、滅、道の四諦に分ける。苦諦と集諦とは有漏。滅諦と道諦とは無漏である。有漏とは煩悩ある肉の心をいい、無漏とは聖き霊なる心である。漏とはもれる事。不浄物を器に入れて傾けると漏れるように、凡夫の心は外から動かされぬ時はぼろを出さぬけれども、心が動くと、すぐぼろが出る。なかみを立派に入れ替えねばならぬ。有漏ではいけない。
苦諦は結果であり、集諦は原因である。今、受けている生死の苦は、過去に原因がある。諦とはあきらめである。真理を明かに認める事である。泣き寝入りでは無い。凡夫は苦を受けて、その苦の起こる原因を知らぬ。道を知る者は苦の原因を知っている。
惑に見惑と思惑とある。真理を見そこなうのが見惑である。人生観、世界観、宗教観などを見という。これに十見ある。知識ある者の陥る惑を見惑という。思惑とは生理上の惑である。生きんがために貪、瞋、痴、慢等の惑が起こる。人生の目的を知らず、肉欲、我欲をほしいままにするのを人生だと思いちがいしている考えを思惑という。
慢とは人を生かす身びいき。生の愛である。誰にでも自分にとりえありといううぬぼれがある。それを慢という。かかる煩悩の集まりをわれと思う故に集諦という。煩悩の集りを我なりとする処に、苦と罪悪の原因がある。苦の原因を知り、惑を転じて極楽に生まれる道を弁えるのが道諦である。滅とは浄土の事である。
転向
当麻山で授戒のあった時、本堂で大勢の人が立ったり座ったりして十二光仏の礼拝をした。そのためごみが立ち健康に害が有るから、私はそれを非常にきらった。大礼拝は誰が初めたいたずらかと不平でたまらなかった。それで十二光の礼拝が始まると、幕の外へ飛び出した。
ある日、上人は私に向かって「大礼拝はお釈迦様の時代から有ったので、ひろびろとした野原で、ヒマラヤの連峰を眺め、その大自然の中に、宇宙遍満の如来を思い浮べて礼拝したものである。日高さんは、鈴木商店の店員達に健康法を教えておられるが、大礼拝は如何なる運動よりも結構だ、これを如法に行えば健康保全に大層役立つといっておられる」とお話下さった。
それでは大礼拝はお釈迦様の時代から有ったのか、物好きの始めたいたずらでは無い。また、健康にも良いといえば結構だと思い上人に、
「これから、やります」
と誓い、その後第一線に立って、十二光の礼拝を晴々とやった。
自讃毀他戒〈自身をほめ、他をけなすことを戒める〉
大乗菩薩戒は全受分持である。上人は一条一条戒文を読み「よく保つや否や」といえば、皆一同に「よく保つ」といえといいつけられた。自分は第六条まで、皆と口をそろえて「よく保つ」といった。けれども第七の自讃毀他戒を誓ったら破邪顕正の剣を振り廻すわけに行かぬ。科学者の面目が立たぬ。こればかりは、しばらく御免を蒙るとあって、そっと後列へ避難した。
お説教の時はいつも上人と向かい合って坐し、一心に筆記していたこの小僧が「第七、自讃毀他戒。よく保つや否や」の時、姿を見せぬから、上人は眼鏡越しに小僧は何処にいるかと、あたりを見廻しておられた。自分はズット後列に下り、頭をすくめて上人の視線を避けた。
その後幾多のにがい経験から、あの時「よく保つ」と誓っておけばよかった。月日も守るという宇宙の憲法を、今しばらくと思ったのが、まちがいであったと後悔した。
破邪顕正と自讃毀他とを混同していたのだ。
大正13年の春、郷里の三昧道場で、上人直筆の仏前に於て「第七、自讃毀他戒。よく保つ」と誓った。
信仰ある人でさえ自讃毀他にあえばいやな気持ちがする。まして一般に自讃毀他せば、人を悪道におとす事になる。これ仏子の忍びざる処であると心づいた。
(つづく)