光明の生活を伝えつなごう

聖者の偉業

聖者の俤 No.44 乳房のひととせ 上巻 三月別時(講話の筆記) 4

乳房のひととせ 上巻

中井常次郎(弁常居士)著

◇聞き書き その四(三月別時講話の筆記) 〈つづき〉

第六日 第十八願の続き

至心。如来は絶対に真実である。衆生心は絶対的でない。人には煩悩と仏心とある故に、仏心より出るものは真実であるが、煩悩より出るものは、真実でない。信心のできた人の心は、澄める水面の如きである。如来の月影は信仰ある人の心に宿る。至誠心より出る念仏は、一つ一つ如来の心に通う。観音様の宝冠に、如来の像を安置してあるのは、常に念仏の心を離れぬ事を形に示したものである。

帰命信楽。信仰に入れば、心は暖かくなる。如来を感情的に愛せば、自分のものとなる。禅では、愛念すれば輪廻の原因を作るという。肉の煩悩からの愛念はいけないが、如来を愛念するのはよい。キリスト教では、神を信じ、愛し、望むという。この三つは神に対する三徳である。これなくば、救われないとしている。三徳のうちでも、愛が最も大切である。信ずるも、愛なくば、鳴る鐘の如く、暖味なし。山を移す程の信ありとも、愛なくば何かせんといっている。この点は仏教に似ている。

凡夫の身は罪であるから、この罪の身を愛せば輪廻の種となるが、仏心を愛せば、霊性が育つ。すべてに越えて如来を愛せよ。生理的の可愛と如来の高き愛とは、名は同じくして、内容は全く異なる。

仁とは理性から生まれた愛である。これは生理的の愛でない。かわいとかわいそうとは違う。かわいというは、生理的の愛であって、犬や猫にもある。かわいそうは理性的愛なれば、犬猫には無い。鳥やけものは健全なる子をかわいがるけれども、死せんとするものを捨ててかえりみない。かわいそうとは思わぬ。しかるに、人間は、弱き者、病める者を愍れみ、いたわる。愛国者は妻子を捨てて国難に赴き、君に仕えて死を厭わぬ。忠臣は君の御為、み国のために、死なずにはおられぬ。その志は美しい。けれどもほめられようとして死ぬのはつまらぬ。学者は知識を愛す。カントは哲学を愛して、終生妻を迎えなかった。如来を愛するは、霊性より来る。これは最高の愛である。愛は己を守って、人を苦めず。交友の経緯である。愛する者の悦びは、また、わが悦びである。即ち愛は同喜同憂である。

愛は育てねばならぬ。如来に対する信と愛とのうち、愛の方が美しい。同じ親の子でありながら、親を愛する子と、親を思わぬ子と、何れが美しいか。如来は吾等を生かし給うことを信ずる者よりも、如来を愛する者の方が美しいのである。

浄土教は、聖道のように、理窟をいわぬが、如来を慕わせる。これは浅いように見えるけれども、深く仏心に入り、徹底した、最も深い悟りを得る法である。

如来の相好は、慈悲の現れである。仏のみ姿を拝む者は、仏のみ心を見奉る。如来を見奉れば、慈悲の心は自ら湧き出でる。

善に対しても、悪に対しても、感情は最も力強い。愛に階級がある。子に対する愛と、妻に対する愛とはちがう。信仰に入らぬ間は、肉体を愛し、形の愛に溺れる。

生まれたばかりの赤子には、まだ親の顔がわからぬ。日立つに連れて、眼が見えて来るように、信仰もまた、初めは如来を見奉る事ができない。霊性が開けると、如来を見奉る事ができる。仏性が主で、肉体は従である。子供の間は、母を離れて育たぬように、信仰の初めは、母としての如来が、いりようである。感情的に如来を慕う。児童が青年となり、結婚期に達すれば異性を要求し、結婚により、心が融け合う如く、信仰が感情的に高潮し、三昧入神により、如来と融合し、喜び極なき時が来る。真言宗では、これを三密入門といい、キリスト教では、精霊宿るという。花の花粉が受胎した時である。この時から、如来と離れぬ信仰となる。信仰の中心をなす大事の時である。この信仰を得るために、元祖大師は、

  

阿弥陀仏と心を西に空蝉の
もぬけはてたる声ぞ涼しき

と一心に念仏三昧を励まれたのである。如何に熱心に勉めても、時が来なければ、三昧に入れぬ。王義之が書三昧に入り、能書家となったように、全力を尽して念仏に精進せば三昧成就する。

如来の在す所は、どこも極楽である。仏を念ずれば、そこが極楽である。すべてに越えて如来を愛せよ。己が心に、如来が住み給う時は、人からも愛される。自分勝手の心が起こるとも、如来を大切に思えば、我が儘は出ない。これは感情の信仰である。ここに至れば、如来は常に我が心に在して、光明生活ができる。

次に意志の信仰に進めば、欲生即ち働きの信仰となる。如来のみ心を行う人となり、いのちの続くかぎり、仏作仏行の日暮らしとなる。

〈つづく〉

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