乳房のひととせ 上巻
中井常次郎(弁常居士)著
◇聞き書き その五(三月別時の夜のお話) 〈つづき〉
無礙光
無礙とは自在の意。人の道徳が向上すると自由意志を得る。自由な人は偉い。多くの人は、色々の事に縛られて自由を得ない。無礙光はこの縛りを解いてくれる。
肉眼世界に見る神聖。天体は神聖である。道徳行為の秩序正しき者は神聖である。天体の運動は規則正しく、決して軌道を離れない。停電なく、怠業なし。神聖は天の命令である。その真理の命令に従うのが正義である。天の恵みで草木は育ち、人の心は報身如来の光明に依って活かされる。
人道を歩めば人格者となり、道ならぬ事をすれば非人格者となる。今日の教育は人道的である。人道は恩に報いるに恩を以てし、怨に報いるに怨を以てする。国家中心なれば、国家の敵は殺してもよい。孔子は親の敵と共に天を戴かぬといった。
天道はキリストの如く、汝の敵を愛せよといって、悪人を憎まぬ。太陽は、善き者の上にも悪しき者の上にも平等に光を放つ如く、天道は怨親平等である。
羅漢道は無為自然の道徳である。人道と天道とは、有漏の道徳なれば、羅漢になれぬ。声聞、縁覚は自分一人の悟りを求める。
仏道は羅漢道よりも大きく、一切衆生は、草木までも兄弟である。皆共に成仏したいという大願を持つ。これを行うには神聖、正義、恩寵の徳がいる。真の智慧は知行一致である。これはソクラテスの主張したる所である。正邪、善悪を知る智を神聖とも正見ともいう。その反対は邪見である。正善を取り、邪悪を捨てるのが正義である。仏道を無上道(アノクタラ サンミヤク ナンボダイ)という。
偽った金や盗んだ金で買った食物でも、味や営養に障りは無いが、精神生活を汚す。
そんな不浄なもので生きるのは正命でない。君子は渇しても盗泉の水を飲まずという。
『大経』〈『無量寿経』〉に、二百一十億の国の中から、あらゆる善を取り、悪を去って建設したのが極楽であると述べてある。極楽はこの世界の如く、清濁共存の世界でない。撰択せられた理想の国である。もし吾等は、正義の天秤にかけられるならば、とても極楽往生はできないであろう。けれども恩寵という母の徳に依って、まず育てられる。正しき心が育てば、悪い心は働かなくなる。善が増し、悪が少なくなる。粕が無くなる。動物になるには悪がいる。仏になるには善がいる。栗のいがは初めの間は、実を護るに必要であるが、熟すれば不要となるから、はじける。青い柿のしぶいのは、未熟の間に鳥や人間に食われぬためであるから、実が熟すれば、食べられる様に、赤くなり、甘くなる。私共も、如来の恩寵に育てられると、善心生じ、いがの如き、人を痛める心や、渋の如きいや味が無くなる。善き行が好きで、楽に行えるようになる。悪い事は、いやでもできなくなる。
如来より受けた性は一味であるから、十人は十人、皆和合する。もつれ合う間は駄目である。ほどけなければならぬ。人を嫌うのは、自分に欠点が有るからである。猫を嫌う婦人には、人に対しても、好き嫌いする欠点がある。猫嫌いの婦人に、良い猫を求めて土産にし、その欠点を治した話がある。猫は嫌われる動物でない。好き嫌いは、こちらの人格に欠け目が有るからだと聞き、猫を愛するようになり、人をも愛するように成った方がありました。
〈つづく〉