乳房のひととせ 上巻
中井常次郎(弁常居士)著
◇聞き書き その五(三月別時の夜のお話) 〈つづき〉
無対光
如来光明歎徳章に「仏道を得る」とあるは、成仏の事である。大乗仏教は、広遠なる悟りであるから、菩薩が仏になるは、容易ならぬ事である。それで大乗を研究する人達は、成仏を遠く高く見る。禅宗は軽く見る。
念仏の法門により、阿弥陀仏に投帰没入すれば、阿僧祗劫(地球を分子に分ったとした数の年数)の修行をせずとも成仏する。吾等の終局目的は成仏である。
浄土教は自力教でない。如来に身も心も打ち任せて、成仏させて頂くのである。浄土に生まれて涅槃に到る。宇宙全体と一つになる事を涅槃という。小我を滅して真空真如を悟るのが、小乗の最高の悟りである。大乗の涅槃は真空真如を悟った上に、無量の霊徳を現すことで有る。これが仏陀の悟りである。智慧あるも、道徳的意志が欠けては、完全な人格とならぬ。無礙光は人格を完成する。無対光は完成された人格の心境を表す。
ここの処(礼拝儀を指して)を「摂化せられしおわり(終局)には」と書き替えよと仰せられた。説法中に御注意下さったから、記しておく。
精神修養の終局。菩薩は十信、十住、十行、十廻向、十地、等覚の五十一段の階級を上って妙覚師即ち仏となる。智慧と道徳との終局、即ち人格の完成を正覚という。仏の在す所を涅槃界(極楽)という。
宗教よりいえば、正覚は無量光、涅槃は無量寿を証得する事である。聖道門は哲学であって、浄土門は宗教である。実行哲学では、功徳を自分の方に見る。即ち自力である。宗教では、光明は如来にあると見る。即ち他力。前者は宿分に目があるから見えるのだという。後者は、自分を謙遜して、見えるのは、如来の光明のお蔭だという。
天台大師は、極楽は凡聖同居の処、四つの浄土のうち最も低いといっている。これは哲学的の見方である。吾々は浄土も極楽も同じものと見る。宇宙そのままが涅槃界である。造られたものでない。また無くなるものでも無い。自性清浄の涅槃界である。感情的に極楽といい、理智的に浄土、比喩的に蓮華蔵世界等、種々の別名がある。常寂光土、密厳浄土、無量光明土、無量寿国、智慧土等色々の名称を以て涅槃界を表現している。
衆生が成仏せば、一世界に一仏として生まれ、無量の衆生を済度する。即ち如来の命を受けて、各その国に於て仏道を説く。この地球上に、釈迦の教えの続く間は、二仏出世せず。ただし諸仏は自在に菩薩として化現する故に、多くの仏は、菩薩となって、この世界に出られる。一仏は同時に、十万億(無量を意味す)の国に菩薩として出世する事ができる。その時、仏は迷うて菩薩となるのではない。
〈つづく〉