乳房のひととせ 上巻
中井常次郎(弁常居士)著
◇聞き書き その八 別時中の法話〈つづき〉大正9年6月1日夜 恒村医院にての話
(五)善悪の意義
様々な方面から、善と悪との定義ができる。道に叶いたる行は善であって、これに反するものは悪である。人道の善悪は、人道に叶えば善にて、これに反せば悪である。人道とは真人間になる道である。即ち人間の守るべき道徳である。すべて徳に至る道を道徳という。人道を歩めば人間になる。絶対の善悪は、宇宙独尊の如来に向って進む働きが善にして、これに反せば悪である。
(六)西方極楽
西とは方向の義でなく、終局という意である。十万億土とは、距離の遠さをいうにあらずして、仏と凡夫の人格の差を意味する。凡夫の心は娑婆に住み、仏は極楽に住んでおられる。その心の距離は、十万億土離れているという事である。
(七)三宝
仏と法と僧とは仏教の上では、三つの宝である。聖徳太子のいわれる三宝は、神道と儒教と仏教である。
神を立てて身の生れた源を拝む。即ち祖先を念ずる、次に儒教を奉じて正しき人間となり、仏教に依って如来を念じ、宇宙的霊格者たらん事を祈願するのである。
聞き書き その八 別時中の法話 大正9年6月2日 黒谷光明寺塔頭瑞泉院にて
(一)念仏三昧を修する時の心の定め方 (二日の朝)
安心とは心の据え方であり、用心とは行の仕方である。即ち念仏三昧の仕方が用心である。用心が正しくないと、行の効果が現れない。
信仰が生きているならば、それは次第に育ち、花咲き実を結ぶものである。この度の別時により、信心の芽を出す人あり、花咲く人あり、実を結ぶために、養分を受ける人もあるでしょう。何れも至誠心で念仏すれば育つ。
平生、五根五力の信心の根を強くし、五日七日の別時を勤めて精進すれば、七覚支の花が咲く。
七覚支は、人生でいうならば、結婚期に当る。草木では開花期。神秘的にして、宗教では最も深く入る時代である。大乗小乗共に七覚支の理体は等し。小さな草でも、小虫や牛馬も人間も生れる有様は皆似ている。
如来を離れては三昧に入れぬ。覚とは、心に得る覚えであって、これを冷暖自知といい、口では説明できぬ。一心に念仏すれば三昧に入り、如来に触れる。その覚えに七通りある。それを七覚支という。学問的に七覚支を知らずとも、一心に念仏する人は、自然に心得ている。
〈つづく〉