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聖者の偉業

聖者の俤 No.57 乳房のひととせ 下巻 聖者ご法話聞き書き(別時中の法話) 1

乳房のひととせ 上巻

中井常次郎(弁常居士)著

◇聞き書き その八 別時中の法話〈つづき〉大正9年6月2日 黒谷光明寺塔頭瑞泉院にて

(一)念仏三昧を修する時の心の定め方 (二日の朝)〈つづき〉

一 択法覚支(ちゃくほうかくし)
択法覚支(かくし)とは念仏三昧の心の向け方である。如来は不可思議にして、慈悲の現れなりと思い、今ここに生きて在すという心になって念ずれば、大いに信心の開ける助けとなる。
如来は悩める者には慰めを与え、力を加えて下さる。念仏三昧とは仏と離れぬ事である。択法とは心を如来に向ける事なれば、身口意の三つをそろえて念仏せよ。手は心を表す事(印を結ぶ事)に就ては真言宗に詳しく説いている。金剛合掌とは両手の掌を合せ、指を交互に組合す事である。これは真言宗での称呼であって、『観無量寿経』では、「合掌叉手」と呼んでいる。
衆生、仏を憶念し奉れば、仏もまた、衆生を憶念し給う。如来の三輪と衆生の三業とが叉をなす形を表したものである。木魚を打ちながら、片手を上げると択法心が起こる。択法とは妄念、妄想を捨てて、一心に心を仏に向ける事である。
見仏は帰命の信念に依るもので有って、観仏と違う。口に称名するとも、乱想起らば徒事である。
心のあてを覚えたのが択法である。
二 精進覚支(しょうじんかくし)
精進覚支(かくし)とは一心に念仏する事である。心の鏡が研けて、心が浄くなれば、如来のお姿は心眼に映る。有難く感ぜぬのは、感ずべき器械が眠っているからである。一心に念仏すれば、感じが付いてくる。心よく念仏ができて、時の過ぎるのを忘れるようになる。勇猛精進に念仏すれば、時の経つのを知らぬ。これを精進覚支(かくし)という。
三 喜覚支(きかくし)
一心に念仏すれば三昧に近づく。草木でいえば、花のつぼみが開け初める頃に当る。何ともいわれぬ喜びを感ずる。何かを覚えた時、大なる喜びを感ずる。歓天喜地の感あるを喜覚支(かくし)という。
四 軽安覚支(きょうあんかくし)
喜覚支(かくし)より更に進めば、喜びが平安となる。心が如来の慈悲に融け込む故に安らかとなる。吾々は娑婆の重荷を背負うているから、何につけても気がかりになる。初めの間は心を静めようとすれば、平生思わぬ事までも思い出されて来る。白隠禅師の『安心ほこりたた記』に「坐禅を初めると膝が痛み。眠気が出る。それをきばって見れば、三年昔に隣に貸した黒豆三合、糠一升の事を思い出して妄念山々」という事が書いてある。
念仏して無我になれば、如来の心がそっくり入って来る。この時、心は軽く安らかになる。生理的に気分が良く調った時、この状態になる事がある。一心に勤むるとも、身体の具合が悪い時、軽安にならぬ事がある。
五 定覚支(じょうかくし)
三昧現前。如来を拝む。妙色身は如来の霊体である。大智慧の体は鏡の如し。
六 捨覚支(しゃかくし)
初めの間は、余程気をつけないと定が得られぬけれども、熟達すれば自然に定に入る。習字も初めはよく注意せぬと字にならぬけれども、熟達すれば自然に字になる。念仏三昧の修行もこれに似ている。
七 念覚支(ねんかくし)
心の根本が如来の内に入れば、一日一夜の心の働きが皆如来心から出るようになる。念は人の心を造る。
定覚支(かくし)では三昧中だけ定にあるが、捨覚支(かくし)では家に帰っても定にある。念覚支(かくし)では総てに於て如来心の現れとなる。それから信仰が外的動作となって形に現れるのが八聖道である。平生の念仏は撃剣の稽古仕合の如く、臨終の念仏は真剣勝負の如くに思う人がある。それは、道理でない。平生の念仏により、念覚支(かくし)として実ってあれば、寝首をかかれても大丈夫である。稲を刈る時、肥を施しても急に稔るものでない。平生よく肥をやり、みのらせておかねばならぬ。

〈つづく〉

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