光明の生活を伝えつなごう

聖者の偉業

聖者の俤 No.62 乳房のひととせ 下巻 聖者ご法話聞き書き(別時中の法話) 6

乳房のひととせ 上巻

中井常次郎(弁常居士)著

◇聞き書き その八 別時中の法話〈つづき〉大正9年6月3日夜 黒谷光明寺塔頭瑞泉院にて

(六)至心に帰命す

我等は絶大なる法身仏の御力によって生かされている。自分が生きているのではない。生かされているのであるが、それに気が付かぬ。生かされていると知れば、命を献げて、みむねに対えざるを得ぬ。消極的に運を天に任すのでなく、天と一つになり、勇んで共に働くのである。自然に生きるは、法身のみ親に依って生かされているのである。それより更に進んで報身の光明に育てられる時は、永遠の生命を悟ることができるのである。その真理を教えるのが応身仏である。

宇宙全体は法身の霊体である。報身は肉眼で見えないが、仏眼を以て見る事ができる。肉眼で見えるのが自然界である。自然界を生死界ともいう。凡夫は生死界に住んでいる。心霊界の事を涅槃界といい、永生の世界である。そこに報身如来が在す。かくいえばとて、宇宙は二つに別れているのではない。凡夫は宇宙の半面しか見えない。宇宙の両面を在るがままに見るのが、仏凡の自由を得た人である。お釈迦様は肉眼を以て我々と同じく自然界を見、仏眼を以て涅槃界を見ておられた。浄土は有るけれども、今の文明の力では見えない。それはなぜか。凡夫は自然界を実物と思っているが、それは相対的実在物であって、絶対的実在物でない。意識眠って一夜の夢、阿頼耶眠って生死の夢。阿頼耶識が醒めると大円鏡智となる。吾等の生活が絶対的のものならば、我等の見るものに絶対的価値ある筈であるが、実は夢である。やがて消え失せる物ばかりである。何一つとして、いつまでも頼るべき物はない。

一心に念仏して心が澄めば、覚めた人に近くなる。人の身は仏作仏行をするに都合よくできているが、凡夫はそれを濫用する。親は子を立派に教育しようとして金を送る。子はそれを悪用して遊ぶ。金は、善悪何れにも通用する。

人の生き方に三通りある。法身の理に困って生れたままに生きるのは動物的生活である。宇宙の真理を知って生きるのは理性生活である。信仰に入り報身の光明を蒙り永遠に生きるのは霊性生活である。

(七)至心に勧請す

吾々は大み親の中に在り、如来のものである。親の物は子の物であるから、吾々は親にことわり無しに太陽の光や空気を毎日使っている。念仏も勝手にできる。夜中でも、申したい時は自由に申させて下さる。生みの親には遠慮あるが、如来には遠慮がない。夜中でも念仏を受けて下さる。慰安を与えて下さる。

信仰ができると如来の分身が我が心の中に宿り給う。これを勧請という。聖者には法身の聖者と生身の聖者との二つがある。観音、勢至、地蔵菩薩等、霊界の霊体を法身という。生身の聖者とは凡夫と等しき肉体を持ち、心に仏心を宿す菩薩の事である。菩は仏、薩は有情(凡夫)にて、菩薩とは覚有情である。肉体生活を本位とする者を凡夫という。信仰に入り、一分でも如来心を受けて、永生を自覚した者は菩薩である。

心の明るさにより上品、下品の別がある。衆生の信心の水澄めば、仏日の影宿る。如来は、どうして万人の心に入るかというに、天に一月在って、影万水に浮ぶに等し。信水澄むほど、仏日の影は明らかに映る。

どうすれば、信仰の水が湧くか。一心に念仏すればよい。称名念仏すれば、一念一念、心は如来に通う。南無と称うれば、我が心は如来へ行き、阿弥陀仏といえば、如来はこちらへ来て下さる。これを繰り返すと、信仰は次第に育ち、信水が湧いて来る。かくの如く、如来を勧請すれば、廃悪進善の功徳が現れる。

(八) 至心に発願す

一心に祈れば、あちらから力を与えて下さる。それにより立派に活動できる。南無阿弥陀仏を通じて、仏種子を心の田地に蒔けば、信心の五根が出る。炭は冷たくて黒く、山ほど積んでも熱くない。触れると手が汚れる。けれどもこれに火をつけると、熱くなり、色も麗わしく、人の手を暖め、様々な働きをする。煩悩は黒い炭のようなものである。念仏三昧により、煩悩に信仰の火がつけば、有用物となる。

説教を聞き、得心したばかりでは駄目である。実行せねばならぬ。炭に火がつけば、あおって空気を送らねばならぬ。そのように、説教を聞いて、信仰の火がつけば思いを廻らし、障りを押し除けて念仏の空気を送らねばならぬ。教えを聞けば、それだけ智慧が付く。これを聞慧という。教えに就て思い廻らせば、思慧が出る。また、教えの如くに修行すれば、実感の智慧が付く。これを修慧という。聞思の智慧なく、ただ形式的に申す念仏は、炭に火種を置かずにあおるに似ている。労して効なし。如来を離れては駄目である。

〈つづく〉

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