光明の生活を伝えつなごう

聖者の偉業

聖者の俤 No.65 乳房のひととせ 下巻 聖者ご法話聞き書き(別時中の法話) 9

乳房のひととせ 下巻

中井常次郎(弁常居士)著

◇聞き書き その九 別時中の法話〈つづき〉

大正9年7月25~26日(五) 光明生活。(二十六日午後のお話)

信仰生活の三階─喚起(萌発)、開発(開花)、体現(結実)

活きた信仰になれば、如来の慈悲を離れては過ごされぬ。信とは教えをソックリそのまま受け入れる事である。法身より与えられた心田地に仏種(正因)を蒔き付けねばならぬ。土地が良くとも放任せば雑草が生え繁る。土地が肥えているほど手入れが大切である。生れたままに放任すれば我見、我欲など煩悩の雑草が生える。心田地に手入れをして、念仏の種即ち称名の正因を蒔かねばならぬ。

ロウソクに火を近づけると燃えつくように、我等は如来の尊き事を聞けば、受け入れられる性をもっている。如来の尊き事を聞くのが新薫である。これにより信仰に入る。俵の中の米はまだ活きていない。それが苗代に蒔かれ、芽を出せば活きて来たのである。

報恩のための念仏ならば繰り返していうに及ばぬ。如来と衆生とは親子の仲なれば、お礼をいわなくとも良い筈である。けれども養いを受ける為の念仏なれば、絶えず申さねばならぬ。大きくならぬ信仰は活きていない。「私は仏教に明るいけれども形式的に朝夕仏を拝まぬ」という人は、俵の中の米の如きものである。其の人の信仰は、まだ活きていない。信仰が活きて来れば、心の糧なる念仏を食べたくてたまらぬ。これを信仰の喚起という。

赤子が乳ほしくならば、無心に泣く。親は乳をふくませる。この時「乳がほしくば、ほしいといえ。泣いたとて解からぬでは無いか。ほしくば歩んで来い」というならば、赤子は大きくならぬ。親の顔が見えず、慈悲の心を知らずとも、子は育つ道理がある。これを法爾の道理という。一心に念仏すれば、仏は見えぬけれども信じられて来る。

五根(信根、精進根、念根、定根、慧根)これは信仰の根である。樹に根が深ければ倒れ難い。根は樹の口である。これから肥料を取り入れる。樹は自由に動けぬから沢山口を持ち、四方八方へ走っている。人の口は上に在って、ただ一つ。我等の心霊の口はどこにありますか。六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)は心の口である。これらが心の養いを取り入れる。信仰は必ずしも聞いて起こるとは限らぬ。見ても、触れても、念うても起こるものである。それは人によって違う。勢至菩薩は念から信仰に入ったという事である。心の養分はどこからでも取り入れる事ができる。花を見、鳥の声を聞いても、心あらば信仰を養い得るものである。

法身のミオヤはなぜ夏の暑さや冬の寒さを造り、吾々を苦しめるのか、慈悲の親にも似合わぬ。不都合だという人あらば、それは親の心を知らぬ者である。我等は天地の大なる設備を以て、永遠の生命を獲んがために活かされている。始めから完全な人ならば、修行の道場なるこの世界に生まれる必要が無い。初めから学者であるならば、学校に入る必要がない。金鉱中に金は少なく、捨つべきものが多い。荒金として生まれたから、精錬の手数をかけ、ねうちが出るのである。

あなたのいう事はよく知っているといって話を聞かぬ人の信仰は、まだ生きていない。どうかして永遠に生きたいと念じて、熱心に来るのが信仰の生きている証拠である。
 心の糧を求むる者は信仰に生きている。

信根─信根ができると、如来の実在を疑わぬ。けれども始めは何だか距たりが有る。何とかしてこの距たりを取り去ってほしいと一心に念仏にすがる。それで念仏がやめられぬ。これを信根という。

精進根─如来を我が物にしたいと、一心になるのが精進根である。これにより心の鏡が研かれる。心に少し何か映るようになったが、はっきりせぬ。もっと、はっきりするように研き度いという心が起こって精進する。如来に曳かれる。如来が忘れられぬ。慕わしくてたまらぬ。

念根─我が心から如来が離れられぬようになれば、念根ができたのである。念仏がいやになったり、日課が苦になるようでは、まだ念根はできたといわれぬ。

定根─炭に火が良くつけば全体が赤くなるように信仰が育てば、心全体が仏になる。

慧根─識とは人から教えられたものであって、自分が経験したのでなく、教えられて覚えているものである。火で手を焼いた事が無いけれども、火の熱い事を人から聞いて知っている如きを識という。

慧とは自分の実感に因るものである。一分でも如来に触れると、その感じがある。それを慧という。仏法を聞いたばかりでは、仏子の香がない。慧によって、信心の香が現れる。信仰生活中にこの身が死んで往生し、極楽で信心の花開き実を結ぶ人があり、この世で実を結ぶ人もある。

(六)我と我が物(二十六日夜のお話)

世の中に我が物とては無かりけり
     身をさへもと(土)に返すなりけり

心は我なり。心に蔵されるものは我が物である。心が定まり後に身ができる。心に着くものは第一にて、身に着く物は第二である。衣服、家、財産等は第三で、妻子は第四の我が物である。これらは借り物なれば、元へ返さねばならぬ。仏は「六道の衆生は貧窮にして福分なし」と仰せられてある。天地の中の如来でなく、如来の天地である。我等は如来の中に在り、心の住居は如来の光明中である。

信仰の衣。生まれながらの心に着た衣は汚れている。人を苦しめたり、だましたりして悪いとは思わぬ。泥まみれの衣に泥の飛び散りが着いても穢く見えぬようなものである。心の衣がきれいならば、人に迷惑をかけては穢くてたまらぬ。不浄を気付けば清浄光で洗って貰いたくなる。

身に衣食住ある如く、心にも衣食住がある。菩薩は心に忍辱の衣を着けたれば、謗られても腹が立たぬ。懺悔の衣を着ているから、己が過を直ぐ改める。道徳は人格を飾る瓔珞である。

〈つづく〉

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