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聖者の偉業

聖者の俤 No.74 乳房のひととせ 下巻 8 聞き書き 其の十

乳房のひととせ 下巻

中井常次郎(弁常居士)著

◇8 聞き書き 其の十

当麻山無量光寺にて
八月四日よりの十二光仏講義

無量寿〔つづき〕

 無量寿、無量光は如来の体である。
 本仏の一切智より現れた世界の衆生は、本仏の性を具有する故に仏と成り得る。
 迹仏は迷界の衆生を救うために現れた仏なれば、衆生無くばその要なし。方便法身(迹仏)は衆生を助ける妙用である。「方便」とは「うそ」という事でない。日本と朝鮮とでは「方便」の意味が違う。日本で方便といえば、巧みなゴマカシを意味するけれども、朝鮮で方便とは「方法」「便宜」という意である。例えば、屋根に上る方便に梯子を使う、という如くに使う。
 十劫正覚の仏(迹仏)は因果の法則により、世に出られた仏であるが、本仏は因果を超越している。我等は迹仏の方便により本仏を見た時、本仏と合一する。
 キリスト教に新教と旧教とあるように、仏教にも、これと似た事がある。法蔵菩薩、西方十万億土を過ぎたる彼岸にある浄土等は旧教にて、釈迦正覚、娑婆即寂光は新教である。
 釈迦仏を肉眼で見れば人間であるが、仏眼を以て見れば阿弥陀仏である。此の土を肉眼で見れば娑婆であるが、仏眼を以て見れば浄土である。天の月を離れて水月なき如く、阿弥陀仏なくして釈迦仏はない。本仏によって迹仏(法蔵菩薩・釈迦仏・一切諸仏)あり。
 本仏には、衆生の有無に拘わらず、無作の三身あり。迹仏の三身は衆生を救うためである。
 哲学では本仏を本覚といい、迹仏を始覚という。天台宗では、本有・修成・修顕という。極楽は法蔵菩薩の修行により作られたというは権大乗である。修行により極楽を発覚したというは円教である。神様が日本国を生んだというは神話である。それは別教であり権教である。コロンブスがアメリカを作ったので無く、生んだのでもない。発見したのである。これが円教である。これを修顕という。別教はある機類のために方便として説かれるものである。
仏説 
 随自意説―ブッダが覚りのままを説かれたもの
 随他意説―覚りのままでは理解できないから、衆生の機類に応じ、方便に説かれたもの
 神性は絶対無規定にて、世界の衆生は相対規定による。凡夫が仏に近づけば、近づくほど、悪魔の力も強くなるから、敗けてはならぬ。
 倫理で「人の気質は陶汰されねばならぬ」という如く、仏教では「霊化されよ」という。
 人の気質は生まれ年により異なるといわれる。
子歳生―湿、良く洗練すれば、節検になるが、生まれたままに放任すれば、吝嗇〔=けち〕になる。
丑歳生―結、ものにこり固まる。善悪共に固執する。
寅歳生―演、やり過ぎる。良く用うれば果断、力強し。               

無量光

阿弥陀仏の横の徳―空間的―浄土と娑婆。
本仏―本土、蓮華蔵世界、盧遮那身、絶対涅槃界。
化仏―化土、千百億の娑婆界、釈迦仏、相対生死界。
 娑婆の舞台に現れては釈迦仏なれど、楽屋なる仏の本居では永劫の如来である。お釈迦様は「過去、燃灯仏乃至無量の諸仏は、名と年紀を異にすれど、実はわが身これなり」と説かれてある。
 法華宗の人は、法華以前の経を皆方便と見る。お釈迦様は『法華経』で、自身は無量寿仏であると明かされたのである。即ち真実を明かされたのである。
 十方三世とは、相対差別の人間が見た世界観である。
 諸仏は衆生を救うために、此の土に出で給う。この教化の世界を化土という。化土には、国土と衆生とある。国土には、成住壊空あり、衆生には生住異滅ある。
 浄土とは、仏の自境界である。
 地球が出来て、人間が住むまでに、二十小劫かかる。人間は二十小劫の間、生存する。
 それが月のようになり、破壊されて空になるまで二十小劫かかる。空の間は二十小却であって、また世界は出来始める。かくの如き事を永久に繰り返すのがこの世界である。
 千百億の数は、無数を表わす。
 本地とは本体の事である。ルシャナとは「浄満」とも「光明遍照」ともいう。自徳としては浄満、衆生に対しては光明遍照である。娑婆は凡夫に相応した世界であって、浄土は仏の見る世界である。
 唯識では転依といって「アラヤ識が転じて大円鏡智になる」という。これは権教である。          
 浄土の荘厳は『華厳経』に詳しく説かれてある。お釈迦様が正覚成って後、七日の間、華厳三昧に入られた。ルシャナの化仏が法身の菩薩の為に説法するのを見られた。
 『〔阿弥陀〕経』に「十万億の国土を過ぎて浄土あり」の「過十万億」は「勝過」の義である。超越の意である。感覚世界を立ち越えて、宇宙一体となった世界の事である。
 統摂とは、統一摂理する事である。衆生が教主の教えにより浄土に生まれ、不退位を経て満位に到れば、一生補処として、一世界を引き受ける教主となる。満位から仏に成る。そして釈迦仏の如くに、教主として娑婆に出る。仏が娑婆に出るのは、悪業の為では無い。即ち輪廻するので無く、娑婆の衆生を救う為である。仏の本体は浄土にあって、分身を娑婆に出す。
 因地とは、信仰に入るまで、過去世の事であって、本地とは意味異なる。 

〈つづく〉

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