光明の生活を伝えつなごう

聖者の偉業

聖者の俤 No.77 乳房のひととせ 下巻26 聞き書き 其の十

乳房のひととせ 下巻26

中井常次郎(弁常居士)著

◇8 聞き書き 其の十(つづき)

当麻山無量光寺にて
八月四日よりの十二光仏講義

仏性(形式)と煩悩(内容)

 ヘルバルト曰く「教育とは各自が持てる知能を啓発することである」と。牛馬の如きを如何に教育するとも、高等なる知能が現れない。即ち注入は教育の良き方法ではない事が知られる。もし注入により能力が出るならば、人も馬も教育の方法宜しきを得ば、等しく知者とならねばならぬ。しかるに、事実は生まれながらの持ち前が異る故に、教育は夫々の天分により啓発の方法、程度を異にせねばならぬ。
 煩悩は凡夫の内容実質である。煩悩は肉体の為に起こる。仏の光明に霊化されると、煩悩は断滅するのでは無いけれども、有功に使われるようになる。即ち仏道に叶うようになる。貪りも、食色の欲もある程度までは有用であるが、度を越せば身を害する。欲は必ずしも悪いものではない。仏は一切衆生を助けたいという欲を持っている。霊化とは有害なる欲を有益にする事である。
 摂化の次第―初発心より仏地に到る階級
 如来は太陽の如く、菩薩は月の如し。月は新月より満月に進む如く、菩薩は初発心より次第に仏地へ進む。
 「菩」とは「菩提」の事にて、覚即ち仏である。「薩」とは「薩?」即ち有情、心の暗き衆生をいう。動物生活をする者は薩?である。初めて如来の光明に照らされ、人生の意義を自覚した者は三日月の如し。仏性が次第に研かれて光を増し、十四日夜の月の如くなるまでが菩薩であって、満月が仏陀に当たる。霊化の度が大きくなれば抜苦与楽の功徳も深くなり、善行力も大きくなる。
 報身仏は菩薩、浄業心の所感である。仏には無量の相好光明あって、無量荘厳の浄土に住せらる。
 菩薩の位が進むに従い、所感の仏身も益々広大となる。能感の我が心と所感の仏心と、彼我の差が無くなれば、成仏である。
 「本始」とは「本覚」と「始覚」の事である。本覚とは、もとからある覚、始覚とは、始めて覚った仏である。本覚の三身を覚れば始覚である。

宗教的に
無量光―円満なる人格(正覚)
永恒の生存 (涅槃)哲学的
無量寿 常住の平和

聖道門と浄土門の観点の差

 聖道門では、ここも浄土であるが、吾々が眠っているから見えないのである。醒めると浄土が見える。即ち正覚を得るといって、功を自分に見る。これを自力という。
 念仏門即ち宗教では、太陽が上って天地を照らして下さるから、吾々は山川を眺める事ができるのだと、功を太陽に取る。如来の光明に照らされて、煩悩の闇が次第に消え、浄土が見えてくるという。これが他力である。
有余涅槃―身は娑婆にあれど、心は浄土に住む。
無余涅槃―身は死して一切の苦が無くなれば一身も心も浄土に住む。
無住処涅槃―生死に住せず、涅槃に住せず。衆生済度の為に娑婆に出る。
 大般涅槃とは、声聞の小涅槃に対し、菩薩の大涅槃をいう。声聞は生死の因を断ち、真空真如を悟るけれども他を救わんとの願いを持たず、何等有益な働きをせぬ。しかるに、菩薩は常楽我浄の四徳荘厳の涅槃を望む。これを大般涅槃という。 

炎王光(抜苦、消極的)

 炎王光は衆生に脱却すべき悪素質ある事を明かす。炎王光とは、火が物を焼く如く、如来の光明は衆生の煩悩を焼き尽くすことを形容したものである。
 衆生、生死の根源は深遠にして端なし。故に無始という。無明は一切の惑業苦の源である。
 一切衆生は今現に心の闇に迷うているけれども、本来霊性を持っている。これを開発すれば、終に仏と成る。
 霊性開発は積極的であるが、成仏の妨げとなる悪質を除くは消極的である。不要なる悪質を除けば、有用にして善良なるものが残る。この働きをするのが炎王光である。
 一切衆生は顛倒想を抱いている。自ら正しいと思っている事が、実は正しく無い。常に迷うている。本来、持って生まれた自性清浄心の有る事を知らない。妄塵、分別、影像を自分の心と思う。それらは外から来た影である。心は広くしてはてが無い。瞑想すれば、世界は心の内のものなるを知る。ただし凡夫の心は、広くしてはて無しといえども、はっきりせぬ。大円鏡智が開けると、明らかになる。
 衆生は肉の親の子としては、地球上に生存する一微生物に過ぎないけれども、如来の子としては、宇宙万象を一呑みにする心の持ち主である。
 惑(過去)、業(現在)、苦(未来)この三つは生死の原因である。惑は無始の無明より出る。我等は何の為に生きているかを知らぬ。動物は皆生きていたいという心を持ち、生きる為に必要なる煩悩を持っている。食うて生きよう、食われまいとする。けれども、病的に死にたいと思う者もある。
 節制を知らずに、どこまでも取り入れようとするのが貪りである。煩悩は身口意に現れて業を作る。惑が有っても業を起さぬ時は苦果を結ばぬ。善業は三善道に生まれる因。悪業は三悪道に生まれる因となり、未来に、夫々苦楽を受ける。

〈つづく〉

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