乳房のひととせ 下巻38
中井常次郎(弁常居士)著
◇九 聞き書き 其の十一 〔つづき〕
大正九年八月十八日~二十四日信州唐沢山阿弥陀寺別時説教
誠は偽らぬだけならばねうちが無い。誠に中身が無ければならぬ。にせ物の中身でも駄目である。
草木は太陽の光で育ち、信仰は念仏によって育つ。光明生活とは、光明の中で大きく成る事である。念仏する時、如来は我等の真正面にありて我等を照らし給う。
光明を受ける次第は、初めの間、微々として感じ難い。如来の光明は常に輝いているけれども、生まれたばかりの我々に感じる力が弱い。信心の夜明けは、日の出の景色に似ている。夜明けの光はまだ明るくない。光明生活に入っても、仏を背に負えば煩悩の闇である。闇の中では表裏が無い。日が出ると表裏ができる。信仰生活の大光明中で、ウッカリすると闇に堕ちる。念仏して常に光明に向っておらねばならぬ。光明中にあれば力強く大活動ができる。
常に念仏し、声に連れて仏を思え。心暗ければ人を疑い鬼が出る。大光明中に鬼も蛇も無い。光明は如何なる逆境をも照らす。極楽に往く人は常に光明に向いている。不平をいう者は六道に赴く。
月も日も西へ西へと入相の
鐘で導く極楽の道 〔古歌〕
◇十 法然院
八月三十一日早朝、田中の寓居をあとに、東山の麓なる鹿ヶ谷の法然院へ初めてお念仏に行った。百万遍の門前を東へ、白河村の街道を上り、右に折れて銀閣寺の下を南へ行けば、しばらくにして法然院の山門の前に出る。初めて見た境内の静寂、庭園の幽邃、大徳忍徴上人が念仏三昧を行ぜられたという旧跡、恵心僧都の作という本尊(阿弥陀仏の坐像)と本堂の荘厳など、他山で見られぬ数々の特色に心は曳かれた。本堂は念仏三昧の道場として特に意を用いて建てられたものなれば、本尊は低く安置され、拝むに都合よくできてあるのも注意すべき事の一つである。
仏前の広い板の間は、全部漆塗りらしく、鏡のように拭われて須弥壇の影を映じ、四時、色々の花が規則正しく点々と散華された風情は、いと床しく、心を清め、静けさ麗しさを深めている。
鹿ヶ谷は昔、清盛の専横を憤った藤原成親、僧西光、俊寛などが平家を亡ばさんと謀り密議せし土地として有名である。
法然院は法然上人が安楽、住蓮等と別時念仏を修し、六時礼讃を行ぜられた旧跡であって、当時は如意ヶ嶽の東南にありしを、それより四百年の後、後水尾天皇の寛永年中、知恩院の第三十一世霊巌上人はその草庵を村中に移し、第三十八世万無上人は僧団の惰落を嘆かれ、念仏興隆の為に、忍徴上人と謀り、法然院を念仏三昧の道場として再興せられたのである。
将軍家綱公より現在の境内二千余坪を受領し、延宝八年、忍徴上人はその造営役に就かれた。そして規模の大と結構の美は昔の比にあらざる善気山法然院万無寺が落成した。
万無上人遷化の後は、忍徴上人が院主となり、遺志を継ぎ不断念仏の定式、六時礼讃の行法を立て、院中施行の規則を定められた。
院主は今も尚、午後は食わず、寺内一同菜食主義なれば、或種のビタミンを欠く故か、若僧に虫歯や歯抜の者多く、犬まで牙落ちて老相を見せている。寺の人達が院主の室を訪う時「方丈様、申し上げます」という代りに、障子の外で合掌し「南無阿弥陀仏」という。方丈様はこれに答えて「おはいり」といわずに「南無阿弥陀仏」と答えるのがこの寺の定めとなっている。
九月五日、日曜日。今日一日別時念仏を勤めようと思い、四時半に起きて法然院へ行った。パンを食い、庭の泉水を飲んで夕方までお念仏した。十時頃、自宅より妻も来り、青年二人と四人で一心に〔念仏〕申した。夜は十五、六人の信者が集まりわが家で座談会を開いた。
九月七日。今日も四時半起床、法然院へ行った。路傍で百姓が焚火していた。夜通し我が田に水を引く番をしたらしい。御苦労な事だ。米を作るのさえこの精進だ、と思い寺へ急いだ。六時まで本堂でお念仏を申し、一度家に帰り登校した。
九月九日。初めて金毛院へ案内された。忍徴上人は六十五歳の時、弟子に向い「家業を離れて静かに別時念仏したき人あれど、適当なる庵室なきため、志を遂げざる者あり。我が境内に小庵を建て、別時道場となし、志ある人々に別時念仏を修せしめん」と仰せられた。
上人遷化の後、境内に一つの道場が建てられた。上人の念持仏を本尊として安置し、金毛院と称した。在家衆念仏三昧の道場となし、上人の遺志が果された。
九月も中頃となれば、朝五時前の野道は薄暗い。お念仏を済まして七時頃法然院から下る時、庭を掃いていた寺男が私共を呼び止め「あんた方は若いのに、よくお念仏を申しなさる。感心じゃ。一朝でも、なかなかじゃのに、毎日とは感心じゃ」とほめられた。
金毛院には院主の母君なる七十九歳の方が一人住んでおられた。或る朝、お念仏の後、お婆さんは「今朝二時から起きてお裁縫をしたのですよ」といわれた事がある。はりこを張ったり、洗濯物の糊付けをしたり、木魚の貝を修繕したりなど毎日元気で働かれた。私共はお念仏のあいまに縁側で横たわり、眠気や労れを休ませていると、お婆さんはおすしや飴をくれたり、砂糖湯を持って来て、いたわって下さった事もある。
(つづく)