光明の生活を伝えつなごう

他場所だより

為先会主催八日間如法別時 参加者の感想

H・T

 8日間の別時念仏会に参加させていただきました。毎年この会のご案内を目にする度に参加への憧れを抱いておりましたが、一週間の休暇を取ることに二の足を踏み、また最後までやり遂げられるかの自信も無く見送るばかりでした。しかし、今年は長年の心身の不調とコロナ禍以降の様々なストレスが重なり抱えていられないほどに重くなっていたため、主催する会の皆様にご相談し、勤め先にも理解をいただいたうえで参加を決意しました。
 当日、お寺に集まった参加者の皆様と初めは和やかにお話をしながら準備を進めておりましたが、いざ修行が始まった後は、専らお念佛のみを口にお唱えする生活が始まりました。行中はもちろん、食事の間や休み時間までも私語を慎み、目配り気配りで皆様と共同生活を進めることに初めは大変な戸惑いを覚えました。しかし、口下手で他人と会話を続けることが不得手な私にとっては、かえって好都合であることに気づき、次第に気楽とさえ感じるようになりました。不確かな言葉に頼らずとも、率直な行動で意思を伝えることができ、お念佛と合掌と表情とだけで十分に思いを伝え合うことができたことは大きな学びとなりました。
 お念佛の行は、実に生き物のようだと感じました。一席90分の行を8日間で計38席勤めさせていただきましたが、参加する人数が多くても少なくても、そこに人が集まれば、その時の体調や込める思いの強弱によって90分の時間の密度は様々に変化しました。初めは口を動かし、声を出し続けることだけで精一杯で、肩に力の入ったなんとも不格好なお念佛だったように思います。わずかな時間で集中力が切れ意識が遠のくこともあれば、正しい姿勢が続かず体の痛みばかりを気にして集中できないこともありました。手ごたえのない疲労ばかりが溜まり、不安で眠れなかったり逃げ出したいと思う夜もありましたが、ただひたすらに「如来様の御力で自分を変えていただきたい」という願いだけで思いとどまり、自身をつなぎ留めていました。
 そんな愚鈍な私でも、幾日か経つと少しずつ生活にも慣れ、同行の皆様に過度な気疲れをすることも減り、お念佛でも如来様へまっすぐと思いを向ける感覚がおぼろげにつかめるようになりました。真似事だったものが少しずつ自分なりのお念佛ができるようになったのかもしれません。次第に心身が整っていった4日目の夜、お念佛の最中に突然亡くなった家族を間近に感じました。重なり合うお念佛の声が美しく荘厳な音楽のように聞こえ、如来様から思わぬご褒美を頂戴したように感じられました。
 皆様に手取り足取りご指導をいただきながら、曲がりなりにも全うさせていただくことができました。形ある言葉で言い表すことはできませんが、今胸に感じるあたたかい思いが信仰の萌芽であるならば、信ずる心とは理論理屈ではなく、体験と感情によって醸成されるものであるのだろうと思います。
 同行いただいた僧侶の皆様には、私のような右も左もわからない無知の者を修行のお仲間に加えていただき心よりお礼を申し上げたいです。行中、私が疲れや不安、または逆に過度の興奮によって苦しくなってしまった時、その様子に気づきお念佛の声で私の背中を支え、励ましてくださるのをはっきりと感じられたことが何度もありました。皆様とお唱えするお念佛はなんと心あたたまり、また南無阿弥陀佛の六字名号はなんと雄弁な言葉なのだろうと感激いたしました。常に凜としたお姿と行いを保たれ、慈愛溢れるお心配りで行を導いていただいた皆様をお傍で見ていて、お念佛はかくも人間を磨くものかと感服いたしました。その万分の一でも真似ができるよう私も学びを進めてまいりたいと思います。

合掌 南無阿弥陀佛

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