光明の生活を伝えつなごう

他場所だより

りんご狩りの集い/大願寺薬師堂別時会に参加して

りんご狩りの集い

鎌尾 光栄

 昨年11月に長野県法学寺様(以下敬称を略します)において第19回法学寺智香寺ご祥当別時とりんご狩りの集いがありました。今年は広島、和歌山、静岡、東京などから9名の参加でした。
 初参加の方もおられて嬉しく思いました。これまで世話役をしてくださいました近畿支部の佐野成昭上人が、昨年の4月にお浄土へ還られました。このお別時はりんごが大好きだった佐野上人の想いから発願されましたので、気負わずに参加できる結縁的な行事であることも魅力です。ご冥福をお祈りします。
 当日、いつものように長野駅に集合すると、古田上人がお迎えに来てくださり、さっそくお寺の近くにあるりんご畑へと向かいました。新幹線の車窓から遠くに見た山は、くすんだ赤茶色で、温暖化の影響でやはり紅葉はまだなのかしらん? と残念に思っていましたが、山道を分け入ると間近に赤や黄色の鮮やかなグラデーションの色彩が次々に目に飛び込んできて、車内に感嘆の声が上がりました。更につづら折りの道を登っていくと、錦繍織りなす山々が幾重にもかさなって見事でした。途中、源頼朝公ゆかりの静松寺の近くを通りました。善光寺に参詣した弁栄聖者も1ヶ月程逗留されたお寺です。明治43年、聖者52才の時に、この庭の桜の木を素材として光明会常用の十二光仏の独自の念珠を新発案されました。また、静松寺から発見された聖者のあご髭は法学寺にもお祀りされています。
 りんご畑に着いてご夫妻が丹精込めてお育てになられた立派な赤いりんごを思い思いに採りました。夏の水やり、下草の手入れ、はたまたイノシシ一家など珍客の対策まで本当にご苦労された、しかもお念仏の染み込んだ有り難いりんごです。法学寺は1616年(元和2年)家康公没年に建立され400年以上の歴史があります。古田上人は26代目のご住職になります。集落の信仰のお寺ですので宗派を問わず様々な方が訪ねてきます。標高698メートルの高地にあり、お寺の裏に廻ると東には横手山、東南の眼下には市街地が一望でき、奥に菅平高原、遠くに浅間山などの広大なパノラマが見渡せます。お寺では奥様が漬けたシャキシャキの野沢菜や上人の妹さんが煮てくださった黒豆やお菓子を食べながら話題は尽きません。その後、本堂でお念仏をして米粒名号のキーホルダーを頂きました。
 夕闇がせまるなか海抜一千メートルにある宿泊先に移動しました。カラマツやシラカバが立ち並ぶ間に飯綱山が美しく聳えています。夜には写仏会があり自分の願い事を書いて写仏を完成させ、米粒名号を頂きました。
 実はお上人は大学三年生の時から米粒に名号を書かれていたそうです。私は長い修行の結果とばかり思っていたので、そのお話を聞いてとても驚きました。翌朝カーテンを開けると、まだ暗い中に、明けの明星金星と満月が皓々と輝いていました。この月は天文学的計算から一千年前に藤原道長が詠んだ「望月の歌」と同様の僅かな欠け方をした月なのだそうです。
 去年は雨から初雪へと変わり一夜のうちに25センチも積もり一面の銀世界でしたが、今年は暖かな気候で、忘れ得ぬ月を見ることができました。それから、近くにある智香寺の大伽藍に入らせていただき、前田家ゆかりの阿弥陀様の前で朝のお念仏をお称えしました。とても清浄な時間でした。再び法学寺へ戻り、弁栄聖者の祥当別時を厳修しました。「衆会」と「いまささぐ」の斉唱に合わせて、献灯、献香、献花を行いました。その後礼拝儀を誦して、お念仏申しました。上人の拝読されるご略伝に聖者を偲び、最後に「法のいと」を歌い、三礼して終わりました。お昼は毎年お世話になっているお蕎麦屋さんでフルコースの蕎麦料理をいただき帰路につきました。行事がいっぱい、お腹がいっぱい、お念仏がいっぱい、心がいっぱいのお別時でした。準備をしてくださった法学寺の皆様に心より感謝を申し上げます。法友の皆様とまたお念仏できることを祈念しています。

大願寺薬師堂別時会に参加して

匿名希望

 私はキリスト信者ですが、弁栄聖者、光明主義のご縁を頂いて、お念仏を称えさせて頂けるようになりました事を初めにお話しさせて頂きたいと思います。
 私の父は、生まれた当時の村民はほとんどがカトリック教徒という「大刀洗町」(福岡県)出身です。母は仏教を普通に信仰する家庭で育っています。父はカトリック信者であることは伏せて(隠して)いましたので、母はその事(カトリック信者である事)は知らずに結婚していました。しかし祖父の臨終の時、神父様が出入りしたり葬儀は教会で行われましたので、カトリック信者であることが明らかになりました。私は小学校低学年の時でした。当時は第ニバチカン公会議前で、教会法はまだ他宗教は認めていませんでした。そんな事を配慮してか、母は洗礼を受けました。それからの私の家庭は、毎週日曜日は教会に行くという生活になりました。私はだんだん成人していくにしたがって、自分がカトリックの信仰をしている事に疑問を持ち始めました。東洋と西洋の文化の違い、本質的な考え方の違い等、簡単に遠藤周作氏の表現をお借りして言うと「何かしっくりしない、サイズの合わない他人の服を着ている感じ」又「何時までも深まりいかない自分の信仰が一番問題とするところです」。
 私は仕事も定年退職し自由になった晩年を『潜伏キリシタンの人々の信仰』を調べる事にしました。それで五島列島の北端に位置する小値賀島に思い切って移住しました。小値賀島は人口2千人程の小さな島です。住んでみると仏教が盛んな事が分かりました。6宗派と7寺があります(内2寺は浄土宗)ある日、私は阿弥陀寺(浄土宗)に五島列島最古の木造建築物(万日堂)があると知り、見学に行きました。本堂に入った時、入り口にいろんな冊子が置かれていて、その中の三昧仏の表紙の小冊子が目に留まりました。九州光明会発行の『めぐみ』でした。『めぐみ』は初めて見ましたが 表紙の三昧仏は見覚えがありました。(実は若い時 岡潔の著書から弁栄聖者を知っていました。その当時《約50年前》「光明会」を探しましたが見つける事はできませんでした。)
 今回はすぐに『めぐみ』の発行所からいろいろ調べていき「光明園」の佐藤様につながりました。お話を致しまして、すぐに『ひかり』を含むいろんな資料を送って下さいました。
私は『ひかり』を一年余り拝読させて頂くうちに、日に日にお念仏を学びたい気持ちが強くなりました。しかし自分がカトリック信者だということが躊躇させていました。
 令和5年6月号「光明の福音」(若松英輔氏執筆)に「私は弁栄に出会うことで、キリスト者でありながら、彼がいう「霊性」の道を歩き得ることを知ったのです」この文面を拝読させて頂いた時、私の迷いは無くなりました。その2ヵ月後8月の唐沢山別時会に参加させて頂きました。3日間でしたがお念仏させて頂く事で、自分でも実感出来るほどの心の変化がありました。その時の帰りに昭教上人から、小値賀島にも弁栄聖者の仏画があることを教えて下さいました。私はぜひ本物を拝見したいと思いました。島に戻り、小さな雑貨店にある事がわかり拝見させて頂きました。仏画は阿弥陀如来と釈尊と法然上人が描かれている大きな掛軸でした。日本の西果てのココ小さな島にまで弁栄聖者の人々の救いの願いが届けられている····と信じられない驚きの思いで拝見させて頂きました。だんだんと心が落ち着くと「如来は···いつもまします···けれども···衆生は知らない、それを知らせに来たのが···弁栄である」この言葉も思い出されました。私は、感謝の気持ちでいっぱいになり、こみ上げてくる涙を押さえながらしばらく拝見させて頂きました。
 今私はひかり「はじめての念仏」で学ばせて頂いて お念仏を称えられるようになってきています。そして、大願寺薬師堂第11回弁栄聖者御命日報恩別時会に参加させて頂きました。日程は一日一回の法話、午前午後の休みと昼食は私語を話す事が出来ました。ある御婦人は激動の現実社会を如来を信じて、お念仏に支えられて生きて来た体験をお話しされて、分かち合いをして下さいました。又ある男性の方は「これから敷地内の木を切らなければならないのですが、どのようにすればよいですか」と、金田隆栄上人にお聞きになりました。上人はその作法と心構えを詳しくお話しになりました。私は初めて聞くお話でした。樹霊にお伺いを立てて、木の生命との対話をすることなのだと、私なりに受け取らせて頂きました。そして草などを刈る時も「今度は仏様に御供えする花に生まれておいで···と思いやりの愛を持って南無阿弥陀仏と称えながら草を刈るのですよ」とお話されました。
 「私は、草花や樹木に心を通わせて金田隆栄上人のお話しして下さったように、日常を暮らすことができたら、なんと楽しいでしょう」と思いました。1日目の法話も「いつもあなたの念仏する真正面に真の如来は在ませり。如来と共に行住坐臥に離れず在すことを信じてください」とお話を聞かせて頂きました。
 いつも共にいて下さる如来を信じて、お念仏に精進して、周りの人はもちろん、草花や樹木、小鳥達····如来さまのお命に生かされている総てのものに、思いやりと愛を持って楽しい関わりができる、そんな私の心に変えてくださることを願いながら、南無阿弥陀仏と称えながら「薬師堂」を後にしました。

  • 更新履歴

  •