第41回大巌寺別時念仏会
佐藤蓮洋
◇日 時:9月16日(土)~17日(日)
◇会 場:檀林龍澤山大巌寺
◇法 話:藤本浄彦上人
◇参加者:16日 49名、17日 61名
台風の接近を心配しましたが、例年のように、大巌寺幼稚園および慈光保育園の先生方が中心となりお食事、お掃除のお世話をいただきながら、ゆったりとお念仏とご法話をうかがうことができました。今年は、毎年お会いする方に加え、新しいお檀家の方や若い方もおられ、お念仏の声が本堂全体を包み込むように鳴り響きました。
2日目の昼休みには、新たに建立された大巌寺宝物殿をご住職の長谷川匡俊上人のご案内で見学させていただきました。大巌寺様の基盤を作られた高僧の書やパネルから徳川家との深い関係を伺わせる書状や銀茶碗等、明るく清楚な空間には約500年の歴史と伝統が息づいていました。
お導師の藤本浄彦上人は、昨年に続き「『如来光明礼拝式』を読む」と題して、礼拝式のその意義・意味・意図についてご法話され、詳しいレジュメをいただきました。私の関心事を中心にまとめさせていただきましたことと、正しく理解していない点も多々あると思いますので、お許し願いたく思います。〈 〉内の文章はレジュメの題目です。
- 〈はじめに―近現代を生活体験する者にとっての「念仏往生思想」の意味と意義〉
- 人の誕生とは、“いのち”の尊さが生命の誕生へと実現することです。母体の中で過ごす時間は人の力では届かない思いの重なりの凝縮であり、それを宗教心・宗教性ということができます。現代社会は宗教を嫌うという一面もあります。それに、バブル崩壊やオウム真理教の事件によって、日本人の宗教性がダメージを受けました。人間の生きる意味も希薄になっている。人工知能(AI)への考え方や飽くなき便利さへの警告などは倫理的規範によって制御できるというのではなくて、人間の宗教心・宗教性の覚醒に基づくことを強調しておきたいと思います。このような状況だからこそ宗教性の覚醒を促進させることが重要であり、乳幼児や児童への係わりが大変大切になります。ここに参加されている多くの先生方は日々幼児教育に携わっていらっしゃる方々であり、特にお願いしておきたいことです。
浄土の教えに二種深信があります。我々は罪悪生死の凡夫であることを信ずること、そして、阿弥陀仏の本願力によって救われることを信ずることです。煩悩に振り回されずに、「往生浄土を求め」「阿弥陀仏に帰依し」「念仏を行う」という究極的な関心に照準を合わせる意欲を持続させること。そのことにフォーカス(焦点を合わ)すべきなのです。
法然上人には「浄土の教えは時機を叩きて行運に至り、念仏の行は水月を感じて昇降を得たり」というご法語があります。阿弥陀様の光明は近現代の念仏する者を照らし感応道交の世界をもたらすのであり、浄土の教えは近現代人の生活体験者にフィットし実行するにふさわしい教えなのです。そして弁栄上人は浄土往生の教えが近現代人の時機相応の教えであることを確信しておられます。
近現代においては、この法然上人の歌の精神を実践的な信仰運動として取り組む二つの途として、弁栄上人の光明摂化主義と椎尾弁匡上人の共生仏教主義が両輪となるべきなのです。個人の念仏実践行と社会活動的運動は、近現代的風潮である「個人と社会」という思考祖型の典型といえます。まさに個人の念仏実践行として、弁栄上人が「如来光明礼拝式」を公刊し教化実践した意味と意義と意図を理解する必要性がここにあります。 - 〈弁栄遺文への姿勢・私考〉
- 弁栄上人は二十四歳で筑波山に籠もり独自の念仏体験を得、その体験を自證するべく真摯な信仰実践の態度が弁栄上人の出家を意味するのではないか。弁栄上人の「ことば」に触れようとする者には、念仏申すという信仰実践の中でこそ、その「ことば」を受け止め味わうことが求められます。念仏による不求自得(求めずして得られる)の境地(三昧発得)は念仏の究極目的ではなく、法然上人と同様に「(浄土)往生の業」としての念仏であることは強調されなければなりません。『礼拝式』をともに唱和し味わう体験こそが、弁栄上人にとっては、「自らの”なむあみだぶつ”を一声々々に味わい阿弥陀如来のお育てをいただく」現場なのです。
- 〈『礼拝式』の構成〉
- 晨朝の礼拝 三礼、帰命、歎徳章、勧請、讃礼、光明摂取、念仏三昧、総回向、発願、三礼
黄昏の礼拝 三礼、感謝、歎徳章、懺悔、讃礼、光明摂取、念仏三昧、総回向、回向、三礼
礼拝することは、心の構え、中人軸をしっかりとさせ、生活感覚の中に、取り込むことであり、それが光明の生活といえます。念仏の生活と日常の生活がどのようにかみ合うのか。念仏をどのように相続していくのか。
弁栄上人はシュライエルマッハー(1768~1834)の影響を受けています。シュライエルマッハーは『宗教論―宗教を軽蔑する教養人に告ぐ―』という著作があり、「宗教とは直感と感情であり、知性の延長線上ではとらえられない。信仰とは絶対依存の感情(南無する心〈感情〉)である。」と述べていますが、弁栄上人の教えもそうですね。
今、この私に阿弥陀如来が説法してくださっていることを感じながら、お念仏に精進ください。
以上がご法話・レジュメの要約です。
この原稿を書きながら、なぜか法然上人のご法語を口ずさんでいました。「いけらば念仏の功つもり、しなば浄土にまいりなん、とてもかくてもこの身には、思いわずろうことぞなき・・・」
藤本上人の御教えが心の中で共振したのかもしれません。ありがとうございました。