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近畿支部だより

近畿支部 平成19年10月

通照院別寺に参加して~山本空外上人七回忌追恩念仏会~

関口 高

7月22日(日)午前7時~12時
舞子・通照院(神戸市垂水区歌敷山1-5-19。
住職・佐橋啓空師、前住職・快雄師=龍飛水)で。講師は広島大学名誉教授・隈元忠敬博士、出席者・約45名。

行事は念仏一行(維那・亀山政臣師)、朝がゆ供養、報恩念仏礼拝、休憩時間にお抹茶接待・空外上人墨蹟拝見など、隈元博士の記念講演。

記念講演「空外先生を偲んで」(要旨)

  1. 空外先生の七回忌追恩念仏会の講師を引き受けたが、私が直接、空外先生に教わった機会は少ないので、果たして、先生の本質を説明できるか不安である。4年前に発行された「空外の生涯と思想」(龍飛水=佐橋快雄編、2003年無二会(通照院内)発行)に、先生のことはほとんど載っており、出席の皆さんはご覧になられているだろうから…。
  2. 私の周囲に、空外先生の愛弟子といえる2人の方が居られる。一人は新本豊三君、先生との年齢差は32~33年。もう一人は川本剛空君(京都・安楽寺住職)、先生との年齢差は42~43年。
  3. 私が先生と生徒との年齢差に関心を持つのには理由がある。例えば、法然上人(1133生)と親鷺上人(1173生)とは40年の差。60歳代というのは、人格・内容ともに充実した年齢。20歳代はエネルギー溢れて、集中力旺盛。この両者が真剣に出会うと、生徒は先生の内容をどん欲に吸収するのである。
    西洋でもギリシャのソクラテス(前470生)と弟子・プラトン(前427生)の年齢差は43年。プラトンと弟子・アリストテレス(前384生)の年齢差も43年である。ドイツのカン卜(1724生)と弟子のフィヒテ(1762生)との年齢差は42年。
    空外先生と私との年齢差は23年であった。
  4. 空外先生と私の接点〈空外先生:1902(明治35)生、1926(大正15)東大哲学科卒業。1929(昭4)~1947(昭22)広島大学勤務。1945(昭20)広島で被爆。42歳で出家・仏門に入る。1953(昭28)~1966(昭41)広島大学に復帰(大学院教授)〉
    私は昭和24年、広島大学西洋哲学科に入学。その前年に先生は退官しておられた。昭和27年卒業し大分大学に就職。広島大学に内地留学して、大学院教授に復帰しておられた空外先生のご指導に預かった。
    昭和32年の私の学位論文(カント、フイヒテ)は空外先生の置き土産のようなもの。
    昭和49年、私は政府派遣留学生として、ドイツのハイデルベルク大学に留学した。昭和の初めに空外先生が留学された大学である。昭和50年頃先生が近著の「念仏の哲学」を2冊送ってこられ、1冊は「ハイデルベルク大学哲学研究室に寄贈するので、ドイツ語に翻訳して渡されたい」とのこと。仏教語をドイツ語訳に苦心さんたんして、寄贈の手続きを終えた。この本は図書番号「二九六-YAMA」として、現在も活用されている。

  5. 隈元博士は、西洋哲学の歴史として、ギリシャのソクラテス、プラトン、アリストテレス。プロティーノス(204生)、ニコラウス・クザーヌス(1401生)。ドイツのカント(1724生)フィヒテ(1810生)等の思想を説明された。
    さらに山本空外先生の独自の哲学思想をも開陳されました。
  6. 空外先生の根本思想は、生涯を貫いて、如何なる障碍があっても変わることのない思想であった。昭和11年の「哲学的体系構成の二途-プローティーノス解釈試論」、「弁栄聖者の人格と宗教」から、昭和16年「国家倫理の構造」、昭和46年の芸術について「書と書道観」(墨美)、昭和49年の宗教について「念仏の哲学」等にいたるまで、その哲学的思想は一貫しておられた。
    空外先生はこの「念仏の哲学」を50有年、念仏一筋にして来た証拠であると申された。

所感

  1. 私(関口)は、昭和58年に通照院で行われた山本空外上人の「五重一相伝」に参加以来、24年ぶりの再訪であります。
  2. 出席者の大部分が、青年男女であるのには、一驚しました。また通照院の月刊機関誌「パーラ・ミター」によれば、年聞を通じて毎日曜日朝、7時~9時半、念仏礼拝、朝かゆ供養、住職(啓空師)と前住職(快雄師)が交代で講読又は法話を続けておられるとのことで感服しております。
  3. この通照院は、戦前、神戸東極楽寺の末寺でした。住職が支那戦線で戦死され、未亡人と娘さんのお二人で細々と戦後も寺を守っておられました。縁あって快雄師が入りムコで入寺されて以来、快雄師の卓越・熱心な寺院経営と、師と仰ぐ山本空外上人のご指導、ご協力とが相候って、今日の隆盛に至ったものと思っています。
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