教学研修会
安宅川 崇
◇日時 10月18日(木) 午前10時から午後5時
◇場所 京都・龍岸寺
◇講師 仏教大学教授藤本浄彦上人
◇受講者 31名
近畿支部の教学研修会が開催されました。
本堂には、山本空外上人の「行中道(中道を行ずる)」の扁額が掲げられていました。寺庭の大きな萩はすでに盛りを過ぎて葉末にわずかに白い花を残すのみでしたが、納経塔のそばにススキの穂が銀色に輝く、穏やかな秋の一日でした。
受講者は31名。「弁栄上人の道詠」と題したご講話を、午前に1席、午後に2席拝聴させていただきました。
ご講話
- (1)着眼点を絞ろう
- 浄土宗祖法然上人に対する弁栄上人の着眼点、「わが祖の 世にもっとも尊崇し、愛慕せらるる円満なる人格は、かえって内容(※弥陀に霊化したるところの、もっとも美に、もっとも霊き、大いに味わうべき、甚だ楽しき霊に活きて、温熱の血の循るところの霊的内容)の豊富なるところにあらずやと思う。…わが祖の内容を洩らしたまえるものは、道詠なりというべし。いかにとなれば、いったい歌というものは、自己の実感、自己の内容が自ずから詞にあらわるるものなり…」の『宗祖の皮髄』(25~27頁)を引用。宗教というものは、「宗教経験の実地に立つ内実の言葉化」によって、宗教たる特質を開き示す。
★19世紀から20世紀中葉における西欧思想における注目点 S・キルケゴールとM・ハイデッガーのそれぞれの言を提示。“ことば”(概念)の生まれ故郷・“ことば”を「存在の家」とする言語感覚=人間の存在のあり方の現実(経験)から湧き出る表現としての“ことば”である。
★我われの視点・姿勢 弁栄上人の道詠は、霊的内容を醸し出しているということ→弁栄上人の実行の効果として、豊富なる内容より霊に満てる妙味を洩らしたまえる甘き汁を享受することを求めて…→念仏信仰実践を通して主体的に自己の課題として受領する。→十二光仏の清浄・歓喜・智慧の光明に注目。 - (2)十二光仏の中の清浄・歓喜・智慧の光明について
- ★十二光仏の出典 十二光仏は弁栄上人の独創ではない。仏の説法(『仏説無量寿経』)であり、『礼拝儀」では多少読みやすく発声しやすくアレンジされている。
★特に清浄・歓喜・光明について 『無量寿経』を解釈・註釈した浄土教者の中で、この十二光仏を子細に話題とする例は多くはない。その中で、新羅の憬興の「無量寿経連義述文賛」→恵心僧都源信の『往生要集』→法然上人の『逆修説法(※生存中に中陰説法をすること)』→弁栄上人の『礼拝儀』という、特に注目すべき系列があるように思われる。 - (3)清浄光・歓喜光・智慧光の道詠をさぐる
- 弁栄上人の『お慈悲のたより』上巻・77を紹介。
「聖きみむねにより新しきいのちを与えられし聖き吾が友だちまでにまをす。此ごろますます信念いやまして、御精進のほど遥かによろこびに存じ候。(弁栄上人の呼び掛けの文のすばらしさ)…はやく自己罪悪の垢質を除きて(※人間の本性は清浄なのだけれども、そこに、貪・瞋・痴の三毒がついて煩悩の身となる。念仏によってそれを除き、清浄・歓喜・智慧を有する身とならせていただく)…
吾人は宗祖の述懐として詠じ給ひし聖歌により、其消息をもらしてあると存じます。「阿弥陀仏にそむる心の色に出では 秋のこずゑのたぐひならまし」即ちこの道詠こそは霊光に感染し、霊化せし形成を示されたのである。内容のほどは、「われはただほとけにいつかあふひくさ こころのつまにかけぬ日ぞなき」と示されてある…
つひに多年に功つもり徳かさねたる効果は、精神に薫染し心霊に霊化し、その感染したる弥陀の光彩が、おのずとこの道詠に露出したのである。…大師は特別の権化なれば、吾々の及ぶ所に非ずとて自ら棄つる甚だ道にならず。…
一心に弥陀を念ずるは、いかでこのことにいたらん。(※法然上人の念仏の実践とその生涯。弁栄上人はそれを知識でとらえていない。弁栄上人の法然上人像が感得される)…聖名によりて讃頌し上る。
清浄光(人の感覚即ち眼耳鼻舌身に感染する光。感覚清浄となりて霊徹す)「にごりにいでていさぎよく さけるはちすのかほりこそ きよき光に開れし 人の心の花ならめ」「あかねさすてふ朝日影 みるもまばゆく輝くは 清き光に照らされし 人の心にたぐひてん」…「雲をあらしに払はせて さやかにてらす秋の月 きよき光に照されし 心のすがたにたぐひてん」…
歓喜光(人の感情に感染する光。この光によりて心の苦悩うせて平和に歓喜にみちてうるはしき心情となる)「くるしき海はかぎりなく まよひはふかくそこもなし めぐみの船にのりえたる 人の心は安らけし」…
「一たび開きてとことはに かはらぬ色はよろこびの 光りにあひてうれしさの 人の心の花ならめ」…
智慧光(此の光によりて人の仏知見ひらけてあなたの聖きみすがたと聖きみむねとを示さるる)「智慧光をあふぎつつ 心のすみぬればこがねのすがた妙なりし 月のおもかげやどるなり」…
「妙なる法の身の月は 照さぬ所なかりけり まよひの雲のはれぬれば わがのきばにぞながめえん」弁栄上人の道詠は、体験から洩れた言葉。道詠には過去の聖賢の背景がこめられている。それを“ことばの力”としていただく、解釈からふみこんで、そのことばの出所を知ることが大事である。それは念仏の態度と同様で、お念仏の心を通して感得していく。道詠は縦横無尽の世界、いわゆる阿弥陀如来の世界。そこには生死を超越した心の在りようが示されている。
- (4)おわりに ~光明摂取の奥行き=摂取とすてお生成と往生~
- 阿弥陀仏と衆生の間柄は“霊化”である。見仏が目的ではなく、大事なのはお育てをいただくこと。弁栄上人は、阿弥陀仏を“大ミオヤ”と擬人化し、“あなた”と二人称で呼んでいる。この点は注目すべきことであり、大事な手立てといえる。弁栄上人は、光明摂化主義。念仏の縁による入口だけでなく、往生浄土に続く限りない奥行を有するものである。死やそれについての意識や宗教事象だけが仏教ではない。弁栄上人は、生きている現実に着目され、道縁を重視された。光明摂化という言葉には「一生を貫き、念仏を相続する日常の光明生活の中に、霊化の深まりを得て自然に導かれていく」という弁栄上人の含みがある。それゆえに、生かされている喜びを感じつつ、人生は真剣にならざるを得ないものであり、かつ尊いものである。
感想一言
法然上人と弁栄上人が、時間空間を超えて、今まさに対座されているような感を抱きながら、藤本浄彦上人の尊いご講話を拝聴いたしました。