光明の生活を伝えつなごう

近畿支部だより

近畿支部 平成21年8月

聖者90回忌追恩勢至堂別時

佐野 成昭

6月1日、近畿支部主催にて弁栄聖者90回忌を記念し、河波定昌上首上人をお迎えして京都市知恩院内勢至堂で聖者の追恩別時を開催しました。近畿地区から49名の参加がありました。

実施の時間割は、10時=朝の礼拝・念仏  10時40分=移動・休憩  11時=法話  12時=昼食  13時=昏暮の礼拝・念仏・回向  13時45分=移動・休憩  14時=法話15時=解散

近畿地方は新型インフルエンザの流行でマスク使用が義務付けられていて、皆さん着用して集いました。華頂山のウグイスの声が清らかに聞こえる中、天候に恵まれてこの記念事業は無事終了出来ました。ご法話の時間が念仏の時間より長く、記念講演会の感がしましたが、礼拝儀とお念仏も称えて聖者のご回向をさせて頂きました。法然上人の本地、勢至菩薩様をお祀りする勢至堂は阿弥陀堂より静かで落ち着いた雰囲気があり、往時が偲ばれて弁栄聖者がここでお別時をされたことがうなずけました。すぐ近くに法然上人の御廟と奥に聖者のお墓があることも良い霊場と言えます。

江島秀法近畿支部長の挨拶のように、近畿支部の90回忌募金の一部が本部より支部に還付されたため、それを使用して今回の会を参加費無料で開催出来ました。これも皆様のお蔭でした。

お念仏と礼拝は50人くらいが座れる本堂で、法話は奥の新しい建物で実施されました。内容の詳しくは河波上首上人の最近の著書や『如来光明礼拝儀講座』を参照願います。私には次の10点が印象に残りました。

  1. 弁栄聖者の教えの二大特徴の一つは、十二光を含む如来光明歎徳章、そして二つ目は如来光明礼拝儀にある。
  2. 「月影」のお歌で語られる法然上人の伝統を尊ぶことは、弁栄聖者のみ教えと同一性および連続性があると言える。
  3. 法然上人とは異なる創造性が聖者にはあり、そこに非連続性がある。故に連続性の非連続性および逆も言える。
  4. 浄土宗にプラトン思想が加わったことは大変画期的なことであり、光明主義はプラトン的大乗仏教と言える。
  5. 光明主義は、浄土宗も禅宗も西洋宗教のキリスト教も包含している。
  6. 例えば、キリスト教で用いられている言葉、「霊の糧」(manna)および「霊養」が礼拝儀に使用されている。また、他に「神よ」の呼格が「大みおやよ」と使用されている。
  7. 河波上首上人は宗教儀礼の研究に西洋諸国を回られたが、キリスト教信者も仏教を研究実践して彼等の宗教を深めている。相互交流で逆も実施されている。
  8. 光明主義は、物理学や生命科学等の科学も包含している。
  9. 人の細胞(60兆個)すべてに選択本願が働いているという教えは、驚嘆に価する。
  10. 無量寿経の「四誓偈」の中に「神力」(不思議な力)という重要な言葉がある。これは光明および本願力とイコールである。この威力を私達日常に働かせたい。

ご法話は、「一念仏を念ずれば一念の仏。光明主義のダイヤモンドのような鋭い智慧を宝として活かしていくべきで、活かすことが90回忌の意義です」と結ばれて終了しました。

役員が会場かたずけの後、今回使用の聖者のお塔婆を裏山にある新しく整備されたお墓に持参して祀り、お経を称えて報恩感謝しました。

私は、こんな素晴らしい光明主義と礼拝儀を日々に実践努力し、生活に応用し、他人にも紹介したいと思います。光明主義も既に何代も世代が代わりました。そのため会のお念仏の仕方も変わって来ています。今回もそうでした。一言で言えば、浄土宗化しています。

この90回忌に当たり、再度本来の光明主義形式に戻す、または近づける必要があると感じます。上首上人も今回「形式の無い内容は無い」と言われ、光明摂化主義の「礼拝形式」の重要性を語っています。本来の礼拝儀の唱え方と割尺や聖歌の使用形式があったのに今と昔では変わって来ています。

例えば、唱え方については、まず、三礼の「(なーむ)あーあ」の音程が異なっています。正しくは、礼拝儀に音符が記載されています。「ぶ」も異なっていますが、少なくとも「みーい」の「い」を礼拝儀の音符通り最も高音の音階「ラ」にしたいものです。現在の「あ」の音程は十二光仏讃礼を誤採用していると先徳上人から聞いてます。弁栄聖者の三礼は「本当に如来様が前にいらっしゃるようだった」と鈴木憲栄上人が述べていたように内容のある形式で丁寧で敬い深いものだったと思います。

次に「歎徳章」に4ヶ所割尺を入れる位置に○印がつけてあります。しかし最近、2回目以降の3ヶ所は割尺を入れていません。意味と語調が変わるところなので割尺を入れるべきです。如来を語る所から衆生を語るところ(♯的語調から♭的語調へ)など切り替え所です。「若衆生(もししゅじょう)」で音程まで変えて切り替わる節目に割尺が無いと聖者方の親切心が徒労となります。割尺があると初心者も変わるということが分かり易いです。例外として「もし三昧にすぐ入る念仏行者が参加者であれば、三昧が覚めてしまうので割尺を控えること」と先徳の上人から聞いています。現在はこの割尺の形式になっています。

次に「願わくは此功徳(今称えた称名の功徳)を以て……往生せん」の後に現在は浄土宗のように称名を10回加えていますが、本来は加えません。

なお、当会の役員会でも正しい称え方の必要性の意見が出て、礼拝儀の称え方の見本のCDを一昨年作成し、ひかり誌に公表し、九州の事務所と一部の支部長や会員に渡したことがあります。今回も希望される方は、実費で差し上げます。20MB容量メールによっても無料で送れます。もし、木叉上人の礼拝儀のお唱え等の適当なテープがありましたらCD化したいと思います。いずれもファックスか電話で075-581-7825へお知らせ下さい。

最近の聖歌も傾向が変わって来ています。お経のように重要な聖歌「聖きみくに」があまり歌われなくなって来ています。また「念仏七覚支」はお念仏の仕方とお念仏でどうなるかが表されていますので、お念仏の前にもっと用いると良いと思います。昔の日帰り念仏会ではお念仏時間が長く、聖歌を法話の時間帯に入れたり、法話の直前のつなぎに入れていましたが、現在はその傾向がなくなってきました。また、ご法話の内容と関係する聖歌が指定されることもありました。これら2、3時間の間トイレ休憩はなく、入堂前にすますことが基本でした。
以上この機会に聖者のご意向と礼拝儀の内容をより理解してこの礼拝形式に合わせたいと思います。

いずれにしても今回光明主義にとって記念すべき場所の勢至堂で90回忌を開催出来たことは、意義のあることでした。新インフルエンザ流行・階段の多い会場などと皆様方にはお出ましづらい中、多数のご参加で心から感謝申し上げます。

神戸光明会6月例会

植西 正裕

6月15日(月)午前10時から午後3時まで神戸・東極寺にて開催。講師は江島秀法上人(京都府城陽市・常楽寺住職)、参加者は10名。

一.行事の概要

午前の部は朝の礼拝・念仏三昧・法話の①、午後の部は念仏三昧・法話の②・聖歌(伴奏)・(鈴木美津子さん)。

二.ご法話(要旨)

午前の部は弁栄聖者の90回忌関連の話として、大正9年12月4日にお亡くなりになった後、現在知恩院にある聖者のお墓が建立されるまでの状況について、講師がお調べになった結果の紹介があった。

最初の資料として大正10年3月発行の『ミオヤの光』(第2巻・第5号)に「京都の仮埋葬式に参加して」(谷安三氏)の記事により、葬儀は大殿で約200名近い参加者のもとで執り行なわれたこと、その後阿弥陀堂でのお勤め、さらに墓地にて納骨の式があり墓標が立ったと記されていること。また著者の文章から葬儀は浄土宗の方式らしく礼拝儀中心の著者にはシックリこない面があったことが興味深いところである。

これに関連して偉大な大師を失った弟子の心の問題について阿難尊者の話(「仏弟子の告白」岩波文庫)にも言及された。

もう一つの資料として、同じく『ミオヤの光』(大正10年4月発行)に「御遺骨改葬のこと」(恒村夏山氏)の記事より、勢至堂での7日間の3月別時の最終日に墓地に改葬とあることから、これが現在のお墓の最初のものである可能性が高いとの説明であった。

午後の部は、午前のお話の底流にあったテーマで、師なきあとの弟子の生き方の問題である。法然上人は勅伝巻32で「……まさに多生曠劫をへてもむまれがたき人界にむまれて無量億劫をくり返しあひがたき念仏にあへり……」と述べられているが、この念仏のご縁を活かすことこそ肝要である。

礼拝儀のえん王光にあるように、私達は「無始の無明」により「惑と業苦」の衆生であるが、如来の光明によってのみ救われ「聖意を己が意とし三業四威儀に行為なり」(超日月光)となることができる。しかしながら現実の生活ではこれを実践することはそれ程容易なことではない。

礼拝儀の如来光明歎徳章に「……斯光に遇うものは三垢消滅し身意柔軟に歓喜踊躍して善心生ぜん……」とあるが、つづいて「……若三塗勤苦の処にありて此の光明を見たてまつらば皆休息を得て亦苦悩なく寿終の後皆解脱を蒙らん……」とあり、これが如来様より与えられる救いであると受け止めることにより少しは心が安らぐことができる。

田中木叉上人のお歌に「……すくいの舟に乗りぬればわがつく岸は定まれり憂き世のことは因縁の津々浦々の風まかせ……」とあるが、これにより安心・平常心を得ることができる。ただそのためには如来の聖意を受け止める心を育てる必要がある。

三.所感

私達は言うまでもなく「惑と業苦」にまみれている存在であるが、如来様との親子の関係を信じて、不断光に照らされ努力・精進することの必要性を説かれた有難いご法話であった。

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