光明の生活を伝えつなごう

近畿支部だより

近畿支部 平成21年11月

教学布教研修会 報告

江島 秀法

◇日時 平成21年10月3日(土)午前10時~午後5時、講義3席
◇場所 京都市・龍岸寺
◇講師 仏教大学・藤本浄彦先生
◇参加者 32名

当日は仲秋の名月にて、法然上人(以下、上人を略す)の「月かげのいたらぬさとはなけれども ながむる人の心にぞすむや」や、弁栄の「月をみて月に心のすむときは 月こそおのがすがたなるらめ」の御道詠が思い浮かぶ。藤本先生には、それにふさわしい課題「光明摂取」について講義して頂いた。毎回、先生は用意されたレジメ(A4判5枚)をもとに講義を進められるので、私にとっては判り易いと思う

講義内容

はじめに、私(先生)にとっての如来光明主義として、①生育環境の中で与えられるもの→念仏することから始まること(縁) ②仏陀→浄土宗祖法然→二祖聖光→三祖良忠→七祖聖冏→辨栄という脈絡(伝統) ③念仏の教えの時代性→僧俗ともなる念仏信仰運動(時機相応性)をあげられた。
本論に入り、

一、辨栄の軌跡
として、①54歳「仏陀禅那は光明主義の預言者である」(山本空外校訂編『辨栄上人書簡集』九一、302~304頁) ②56歳「光明会趣意書」(『如来光明礼拝儀』巻末) ③58歳『宗祖の皮髄』(14~16頁) をあげられ、先生の私見として、以上の①から②へ、②から③へという道筋は、もっとも具体的には③において収斂されることになると思われるとされた。即ち、法然の霊的人格の実質と内容とを倣いて、法然の念仏思想と体験とが辨栄という人格によって独自的・具体的に体得されたのが如来光明主義であると。
二、光明主義理解の一例
として、『浄土信仰をめぐる問いと答え』(藤本浄本著)より、①見る念仏(見仏念仏)とお育てを頂く念仏(本願念仏)-14~15頁- ②法然と辨栄のご精神は一致している-16~17頁- ③念仏三昧とは-30頁-「念仏の三昧食によって人格が育てられ、そして永生の楽果、往生の得益を得て、人格を拡充することが目的です」 ④円具教とは-32頁-「念仏の有難さが実感される人には、誰にも頂かれるのですから万機普益いずれの時代にも適合する教えと思われます」 ⑤念仏申すにあたっての心掛け-42頁-「仏身論を味読して三身即一の親様を私のものと頂き、『一枚起請文』のお念仏によって、その全面が我がものと味わえる」と言われ、先生の私見には、念仏するということは、知識ではなくて体験であるゆえに、注意しなければならない要点がある→本願念仏(お育てを頂く念仏)の相続によって自ら求めずして得られる三昧食を味わう境地が念仏三昧=法然と辨栄を貫くものと。
三、光明摂取について
①十二光明観をあげられ、辨栄の十二光説示の原型が法然の『逆修説法』三七日に見られると。②『観経』の「光明遍照十万世界 念仏衆生摂取不捨」の理解について、善導の三縁釈(親縁・近縁・増上縁)-『観経琉』-、法然の「平等・本願・親縁等」の義-『観無量寿経釈』『御法語』-、二祖聖光の「不離仏・値遇仏」の義-『徹選択集』-、辨栄の「唯一の大ミオヤ」の義-『光明会趣意書』-をあげられ、私見には、光明摂取の二義=化育生成論(光明の働きを得てお念仏申す日暮しの中でお育てを得る)と来迎往生論(光明の働きを得て臨終に来迎・浄土往生を得る)として、法然の「生ければ念仏の功績もり、死ならば浄土へ参りなん。とてもかくてもこの身には思い患うことぞなきと思いぬれば、死生ともに患い無し」(『つねに仰せられける詞』)と「平生の念仏、臨終の念仏とて何の変わり目かあらん。平生の念仏の、死ぬれば臨終の念仏となり、臨終の念仏の、のぶれば平生の念仏となるなり」(『念仏往生要義妙』)を引用されて、辨栄が「光明摂化」ということを強調し重視する視点に立ち、光明摂取を化育生成として積極的に捉える姿勢に注目すべきだと言われた。おわりに、仲秋の名月にちなみ、月を指す指が、即ち辨栄上人の言葉であり、私どもはその先に指し示される月を見て感じる冷暖自知の味わいが大事であると結ばれた。

以上、充実した内容のご指導を頂いた。私たちはこれを受けとめる参加者の器が各人各様で、勿体ないと思えるが、これは今後、念仏相続して人生を全うすることにより、その責任を果たしたいと思う。

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