光明の生活を伝えつなごう

近畿支部だより

近畿支部 平成22年4月

弁栄聖者御生誕念仏会

江島 秀法

◇日時 平成22年2月20日(土)午前10時~午後3時
◇会場 京都市 龍岸寺
◇導師 長崎市浄安寺御住職 藤島秀孝上人
◇参加者 28人

導師藤島上人は支部主催の平成18年2月20日の御生誕念仏会以来、4年ぶり2回目である。檀家が400軒もあり、更に毎月の月参り等、御法務御多忙の中をお越し頂いた。

今回の法話は前回用意された資料について半分ぐらいで終わっていたので、新しい方もおられるという事で、改めて資料を配布下さり、法然上人(以下、上人と略す)と弁栄聖者(以下、聖者と略す)と共通点と両上人の特徴をお話し頂いた。

(1)共通点

① 時代の転換期
上人(1133年~1212年)は公家政治から武家政治への転換期であり、43歳で浄土宗を立宗された。聖者(1859年~1920年)は武家政治から市民政治への転換期であり、43歳で光明主義を提唱された。
② 人物<真の出家者>
両上人共に、智慧深広で清廉潔白にしてカリスマ性がある。
③ 行<力強い念仏>
両上人共に念仏三昧発得の人であり、上人は60歳頃で、聖者は筑波山に籠もられた24歳頃だとされた。両上人の開かれた心の世界というものは、その内容については私共には簡単に理解できるものではないとも言われた。
④ 著作<寡作>
上人は大病された後、66歳の時、九条兼実の要請により『選択本願念仏集』を著された。聖者は58歳の時、異安心問題がある故、知恩院当局の要請により知恩院夏安居会で講演されたことにより、その講演をもとに『宗祖の皮髄』を著された。何れも要請があっての著作である故、人生に「もしも」という事はないが、ひょっとすると著作がなかったという事もあり得ると推量された。何れにしても、この代表的著作の成立には、両上人共に不思議な縁があると私は思う。

(2)特徴

① 志向
上人は往生極楽を説かれ、お念仏を申せば、あなたの明日(未来)は大丈夫であり、そんな恐い処でもなく美しい処だと教えられ、死んでいくのではなく生まれていくのであると、光と希望を与えられた。現代に於いても、例えば病気になった時、医者が「大丈夫、あなたは治る」と言えば病人は安心するし、少しは不安が取り除かれるものであると。聖者は光明生活を説かれ、私共がお念仏を申すことにより、如来の光明が常に今(今日であり現在)私共を照らして下さっている思いを頂けるものだと話された。
② 中心情意
デカルト(1596年~1650年)の「我思う、故に我あり」というような理性中心ではなく、情意中心であり、上人は深心(深信)を特にあげられ、如来さまと自分との接点を徹底的に考え抜かれたのであると。聖者は愛を強調された。従来、仏教では愛を強調しなかったが、聖者は愛を積極的に説かれ、生きた信仰となる為には愛がなければならぬと話された。
③ 強調点
上人は凡夫性を強調された。「凡夫」については、宮沢賢治の童話「うさぎとひばり」を引用されて、「凡夫」であることの難しさも話された。上人の言われる『一枚起請文』の「一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無知のともがらに同うして、智者のふるまひをせずして、たゞ一向に念仏すべし」が私共にとって最も大切なことだが、そのように生活していくことは難しさを伴うのではないかと思う。聖者は光明主義、十二光というように光明を強調された。「阿弥陀」とは「無量寿」(いのち)。「無量光」(ひかり)であるが、聖者はいのちよりもひかりに重点をおかれたように見受けられる。
④ 行動
上人は常座化益であり、その大半は京都で過ごされた。聖者は釈尊と同様に遊行化益であったと。
この項では時間切れにより十分でなかったが、今後、御縁があれば、これを含めて、又お念仏の教えをいただきたいものだと私は思った。

最後に私的な事で恐縮であるが、導師藤島上人が住職をされている浄安寺(長崎市)は、先代秀文上人と共に、私の父方祖父吉原寿三が昭和16年12月8日より始めた暁天念仏を今日迄、約70年、毎朝綿々と続けられている念仏の薫習された寺である。

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