光明の生活を伝えつなごう

近畿支部だより

近畿支部 平成25年2月

平成24年弁栄聖者ご祥当会

安宅川佳子

京都の紅葉美しい頃、12月3日午前10時より午後3時まで 京都市山科道場にて14名の参加者を得て弁栄聖者ご祥当会を開催しました。

今年は聖者の九十三回忌に当たり、弁栄上人や諸先徳のご回向をさせて頂きました。参加者の多くは長い経験者が多かったのですが、初参加者が2名おられました。島根県向西寺住職の山上光俊師をお導師としてお迎えし、二席ご法話を頂きました。

時間割は午前10時礼拝儀により亀山政臣師維那で朝の礼拝とお念仏。11時聖歌「聖きみくに」と法話、12時昼食、13時15分聖歌「聖きみくに(続)」、法話、15時念仏、ご回向および聖歌「のりの糸」、15時市議終了。

まず、弁栄聖者の紹介で、DVD「弁栄聖者その生涯と宗教」の上巻(生い立ちと出家学道)をプロジェクターで見せて頂きました。また、聖者の道詠やご法話の資料を頂き、ご法話中に使用されました。

DVDの内容は、聖者の幼時、十歳十一歳時の御歌、十二歳時の宗教体験(空中に弥陀三尊を拝する)、十五歳出家、東京遊学、二十四歳医王寺薬師堂にて三週間の念仏三昧、一切経七三三四巻の読破、等、映像を見ながら説明を受けました。

弁栄聖者の求道の姿勢は、あくまで実践実証。教学の特徴は、天地宇宙を身とした本有法身の絶対的存在の阿弥陀仏で、そのお救い下さる阿弥陀様とは何か、お浄土とは何かという仏身論を説く。十二光体系において、また、七覚支のように念仏三昧が深まっていけば、どういうふうな道筋で救われていくかということを説かれた。光明主義は光明を目的として頂く教義であり、光明とは、体験的に言うと透明感があって金色に輝くもの。三昧になると光の中にいる体験をする。お絵像の白毫相から念仏する者へ特別の光が集中的にそそがれているという思いを持つ。阿弥陀様は光明を放って強く光を当てて救って下さる。お念仏を称える度、だんだん光が体験的に分かってくる。心が明るい方へ、清らかな方へ、ぬくもりのある方へ、不安から安らぎへ、最終的に心の平和平穏を頂くことが出来る。お念仏してそう成って行きましょう。

岡潔氏が「弁栄上人は一点の私心もない。如来様のことばかり思っている」とおっしゃった。弁栄上人は「如来はいつもましますけれども衆生は知らない。それを知らせに来たのが弁栄である」と言われた。弁栄上人は阿弥陀様と同じ心でいつもおられた。

籠島さき子さんを分身の術で救われた時のお言葉は「仏おもいの心で念仏する」ということでした。又、弁護士、柴先生が「インコや九官鳥がナムアミダブツとしゃべれば、そのインコは救われるか」と問うと、お上人は「救われません。仏様をおもう心で称えないと救われない」とお答えになった。雑念が起きるのはしょうがないが、口先だけの称名に終わらせずに、仏おもいの念、親様おもいの気持ちを起こすことが大切。

生命現象を深く追求していくと、人間レベルでは分からない不思議なことに触れるようだ。その中に、法・きまりがある。

鎌倉時代の法然上人のお言葉は、合理的精神で語られている。「自然法爾という道理あり。炎は上に登り、水は上から下に流れる。菓子(果物)に酸いもの甘いものがあるように、誰でも何処でも同じ結果が出るという見えない法則がある。南無阿弥陀仏と称えたら、阿弥陀様の本願で救われるという法則がある」という。

しかし、弁栄聖者は、更にもっと明確に論理的に天地宇宙の法則として説明された。未知の世界、考えられない世界を無分別知で知っていく。あるけれど説明できない、考えても分からない世界に触れたとき、鋭い喜びがある。瞬間的にインスピレーションで感じる観念体の世界として説かれた。

宇宙全体の仕組みも、体の中の細胞の仕組みも同じ。お念仏を通して体験の世界として心の平和、深い安らぎを得ていく。

色んな辛さ苦しさがあるが、雨曇の上は常に青空ということを忘れないように、と締めくくられた。

合掌

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