光明の生活を伝えつなごう

近畿支部だより

近畿支部 平成26年9月

平成26年度近畿支部夏期別時会

佐野 成昭

近畿支部主催の夏期別時念仏会が、7月18日(金)1時半から22日(火)午前9時半まで、4泊5日の日程で行われました。会場は法然上人ご誕生の聖地、岡山県久米南町の誕生寺です。

昨年のような猛暑は無く平均気温25度程、早朝23度で高くとも27度と低目でした。但し木々や川の近くですので湿度が高いです。誕生寺は今月法然上人八百回忌法要を催された所で法然上人のご縁深いものがありました。

誕生寺でのお別時は今回で4年目になります。広い境内の中の大庭前の奥まった静かな部屋は、お念仏には良い環境でした。

初日参加者は12名。お念仏後、2時より川本剛空上人のご法話(後述)を2時間拝聴しました。6時より夕食と入浴、8時より念仏、9時半就寝。2日目は5時起床、5時半よりお念仏、7時半より本殿参拝。お勤めの後、ご住職より誕生寺の由来についてお話を伺い、貴重な法然上人像と対面拝観させて頂きました。8時朝食の後9時から朝の礼拝とお念仏。昼食の後、1時から休憩を挟んで5時半迄お念仏。夕食入浴の後、7時から9時迄夕の礼拝とお念仏。9時就寝。

3日目と4日目の起床は4時半、5日目は4時。それに従って朝のお念仏の時間は長くなりました。最終日は、朝のお念仏の後、ご回向、閉会式。本殿参拝後、清掃。8時朝食と茶話会でした。今回は、例年より1日多く、しっかりお念仏出来ました。

「礼拝儀・歎徳章」と題する川本剛空上人のご法話の概要は、佐野が次のように理解しました。

人は宗教と哲学を混同している。言葉は形式であり、理性であるが、宗教は内容であり、自分が念仏してどう成るかが大事。ソクラテスが知が行を導くと言っていますが、そうでしょうか? 頭で無く肚で考えることが必要。

前回山科で「至心に帰命す」の自分の法話内容を「ひかり」誌で読み直して見ると自分ながら難しいことを話したのには驚いた。今回お話する「歎徳章」は、無量寿経の重要部で念仏したらどうなるかが書かれている。他のお経は悟りとは何か迄しか書かれていない。礼拝儀は明治37年から何度か改定され大正5年に現在のようになったが、著者山崎弁栄上人(1859~1920)が千葉弁使用なので笹本戒浄上人が標準語に改定された。尚、『光明主義玄義』(1973年出版)が、教門の書物だという人があるが、そんなことは無い。河波定昌先生に確認すると、笹本戒浄上人(1874~1937)は、そう言っていないとのことでした。ましてや弁栄上人が見て校正していないし、死後かなり後で著作されている。

大乗起信論では「言葉は真実を伝えない」と記されている。一方、山本空外上人は「上品な言葉を使えば、上品な人になる」と語っている。弁栄上人は、「念於他仏作於自仏」と語った。つまり、弁栄上人も「他仏を念じて自仏を作る」〈最尊万徳の仏を念じる縁が自分を最尊万徳の仏化をして行く〉と語っている。光明主義は超在一神的汎神教〈多神教と超在の一神教等を統合した教え〉である。その「超在」が他仏で「一神的」が自仏である〈超在的他仏=如来が、一神的自仏=仏化した自分を作る〉。汎神教とは、個物に差異があるが、一切衆生悉有仏性〈一切の生きとし生くるものはことごとく仏性を有する教え〉だからである。

礼拝儀の「至心に○○す」の六ヶ所は、「至心に感謝す」を除いて善導大師の『六時礼讃』の「中夜礼讃」の「五悔」から作られた。「如来光明歎徳章」の歎める場合には、自然と声に抑揚が付くので礼拝儀文に節が付く。

浄土宗の開宗の御文は、内向けには「一心に専ら弥陀の名号を念じて・・・」で、外向けには観無量寿経の流通分であるが、光明主義の開宗の御文は、諸教の対比〈諸教の精要(みおやの光 玄義の巻き)〉である。

「威神光明最尊第一にして〈2009年別時法話引用〉」に関し、現代は「畏さ」〈尊さも〉の心が欠けている時代である。日常頭の下がることがありますか? 西洋の理性主義が神を殺したと言われます。人間が像を作っている。(仏法があるのに)人が法則を作っている。

礼拝儀の「斯光に遇うものは」の遇斯光は換起位〈更生〉で、ここで信仰が起こる。これは智慧光の働きによる。そして、斯の光に 1)触(れ) 2)入 3)感応同交 4)加持 5)入我我入となる。

「三塗勤苦」の三塗の世界とは、火刀血の世界。火は怒りの地獄界、刀はむさぼりの餓鬼界、そして、血は愚痴の畜生界で、斯の光に遇うと抜苦(苦を抜く)仏の悲と与楽(楽を与える)慈を得る。如来の光明は十界(地獄界から仏界)を摂す。如来(性)を頂点におく三角形を書き、右辺が世界(性)と衆生(性)が生産され、底辺が衆生。斯の光明に遇って努力・精進し、七覚支の悟りを得て如来(性)の世界へ昇るのが左辺となる。

今回は、1日多い期間で次の感想だった。

多数:

今までと比べて、よくお念仏出来、古田上人のリードで木魚がよく揃っていたこと。また、食事の量は多すぎず内容も大変良かった。

A氏:

他の別時では、木魚速度の早い人や隣が声と木魚が大音量で大木等他者の音が聞こえず困ったことがあったが、ココでは無くて良かった。

F師:

若い人は、それが熱心なことで良いと考えがち。小さくても質が大切だ。木魚は、完全に等間隔のリズムでバイを動かし鳴らすことで生理的に三昧に入って行く大事な手段だ(身業)。

そのためには、最初から大木のリズムを耳でよく聴いて(身業)、そのリズムで称名を三昧に称えねばならない(口業)。そして、三昧仏をお見つめする(身業)。三昧仏は、三昧に入り易いように描かれている。

仏眼を得た弁栄聖者は、お浄土を人に見させる能力が有ったほどの実力があった。そんな方が描いているから普通の仏像とは異なります。そして、心(意業)に阿弥陀様、大ミオヤ様をお慕い申し上げる。

これら身口意の三業、多くの行いを同時に実施することは最近の科学では「マルチタスク(多種同時行動)」と言って、その重要性が立証され、頭脳の神経系回路が良くなることが脳画像比較で証明されている。

弁栄聖者はその大天才です。木叉上人は全細胞の毛並みが揃うと表現されているように、お念仏は、全ての身体部分と機能が三昧へ向かって揃っているものです。

筆者は思ったのですが、今回は小人数で気心が合っているので木魚が揃ったのですが、参加者がそうでない場合は、1)銘めい勝手におちいり易いこと 2)大木より大きな声の人の速度に引っ張られる傾向になるので、最初に木魚の鳴らし方(叩き方で無い)から念仏の仕方(音量大小は極端を避けること)を大木以上の方がうまく説明する必要があると思います。

また、はるかに得難くても見仏が目標である説明もかならず必要です。その例を語ると一層良いと思います。指揮者は本番前に皆に説明意思疎通する場が大切と同じです。

B氏:

前回は「見仏なんてとても」と思っていたがそうではないと知らされた。「念仏はお礼」ということが実感された。

C師:

維那にとって大変困ることは、お念仏中アメを包みから出す音が迷惑となることだ。しかし、ココでは無いので良かった。(昔は休憩時間にお菓子を食べて木叉上人にしかられたことがあった)

D氏:

自坊では如来様の顔をまともに見ることは無かったがここでは見られた。最初は怖いと思えたが後では優しくなってきた。自坊では、声の音程を合わせるのが困難だったが、和音になっていれば良いと知らされた。

E氏:

ここは遠いが環境が良かった。お念仏が後になるほど進んで高揚し、夜ねられない程だった。

以上

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