光明の生活を伝えつなごう

近畿支部だより

近畿支部 平成29年7月

弁栄聖者生誕兼教学念仏会

佐野 成昭

 平成29年3月25日京都事務所念仏道場にて近畿支部主催弁栄聖者ご生誕念仏会を兼ね教学別時念仏会を開催しました。京都府久美浜在住川本剛空上人(西方寺住職)をお迎えし、昨年に続き『礼拝儀』の興味深く重要大切なご法話を次の時間割で拝聴しました。維那は佐野成昭近畿支部長、大木、橋本週平氏。
午前10時   礼拝念仏
午前11時  法話
午前12時  昼食
午後1時   念仏
午後1時10分 法話
午後2時   聖歌・トイレ休憩
午後2時15分 法話
午後3時半  念仏
午後4時   ご回向・三礼・支部長挨拶
午後4時半  閉会

 ご法話は次のように受け止めました。〈〉内は筆者の挿入。

一席目
 今回は礼拝儀の中の「摂取文」「念仏三昧」「総回向文」および「至心に発願す」についてです。
 山崎弁栄上人の「三相五徳論」の原稿を一部持っていますが、もし、それがもっと展開して書かれるとしたら、弥陀教義の中で書かれているだろうと想像します。それは「無量寿経」に出て来る「諸根悦予 姿色清浄 光顔巍巍」の所です。五徳の中味は、清浄光、歓喜光、智慧光、不断光の四光と総徳です。清浄光で眼、耳、鼻、舌、身(触)の五根が変わる。本当は六根清浄です。眼根の肉眼が清浄になると天眼、慧眼、法眼、仏眼となる。法眼で見仏し、慧眼で仏がおられると分かります。身根が清浄化すると、お顔が輝いて変化することがあります。例えば、死に近い山本空外上人が時々無呼吸になり、顔が土色だった状態の前で私共がお念仏を称えたら、呼吸が回復し、顔がピンク色になったことを経験しています。「称名念仏は現証有り」と言って本当に色々な証しがあります。他にも、脳腫瘍を患った寺の奥さんを旦那さんが何カ月も抱いてお念仏した後の死後の顔が抱きつきたいような非常に美人の顔に成ったのを見たこともありました。嗅いだこともないような良い香の香りを嗅ぐこともある。眼根だけでなく、このように身根も鼻根も他の根も変わり、お念仏をすると現証が起こる。
「光明摂取の文」
「如来の光明は 遍ねく十方の世界を照らして念仏の衆生を摂取して捨て給はず」は、「無量寿経」にある「真身観」の「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」を引用しているが、この前に「如来の」という語句を置いている。それは、この引用文の前にある、「無量寿仏有八万四千相一一相各有八万四千随形好一一好…」の語句を予想していたと思われます。
 「摂取」という意味は、「抱き護る」とM・ミュラーが言っている。冥加〈気がつかないうちに授かっている神仏の加護・恩恵〉でもあり、加持〈仏の加護〉でもある。
 「不捨」=「捨てたまわず」とは、生み・育て・教えの内の後者の二つである。
第二席
 「念仏三昧」は、浄土宗では五種正行、弁栄上人は五正行と言い、この内、念仏行以外を助行と言います。念仏でも目的が異なった念仏で真言宗では、悟りを目的としたものがあり、これを雑行と言います。五種の中に観察正行があり、これは、浄土の仏菩薩様や浄土の景色を観想することです。法然上人の晩年の書に「三昧発得記」があり、三昧が得られ、浄土や仏を見た等のことが記されている。三昧が重要な条件となる。「三昧目的は浄土宗ではない」と言う人がいるが、そうではない。三昧を得て仏が見られる。二祖、聖光上人も「末代念仏授手印」で一行三昧を説いていて、三昧が重要です。三昧の証拠に仏が仏を見せて下さる。そして、仏を見れば悟りが得られるとお経に記してある。称名念仏の有り方の一つに見仏があり、極楽往生がある。
「総回向の文」
 「願はくは此功徳を持って 平等一切に施こし 同じく菩提心を発して安楽国に往生せん」
回向とは、この世と前行の善行の功徳をあの世(極楽)に振り向けることです。インドとギリシャ宗教が合体して出来た頃の般若経の「回転趣向」の二文字からの言葉です。回向には、平等一切に施す総回向と仏様や諸祖と共に、先祖〈当会では現存者も〉に施す別回向があります。
 三種般若経に次の三種回向があります。

  1. 衆生回向…平等一切に施こし
  2. 菩提回向…菩提心を発して
  3. 実際回向…安楽国に往生せん

 往相回向〈自分が修めた功徳を他の衆生に施してともに浄土に往生しようと願うこと。浄土真宗では、阿弥陀仏が衆生を浄土へ往生させるために、絶対の慈悲の力をさしめぐらすことをいう。(大辞林)〉は、極楽へ行って修行して上品往生させたまえと回向することです。また、善導大師の「発願文」や熊谷実篤入道のように上品往生させたまえと願うこともです。環相回向は、上品往生した人がこの世に来て人々を救うもの。回向はその功徳を自分で作り、自分で受けとる自作自受〈一般には悪行に使用の語〉と田中木叉上人が語られたと杉田上人発行の書に記されていたが、河波上人は、他作自受と語られたと言われて意見が異なっている。他とは、阿弥陀仏様のことで、阿弥陀仏様の力を受けることです。この他力が極端になると真宗の宗教となります。
 この総回向の文を唱えた後、浄土宗では、重要視する十回称名の「お十念」を加えます。「光明会ではどうですか?」と川本上人より私(著者)に聞かれたので、「昔から加えていません」と返答しました。

第三席
 「至心に発願す」は、初め「進徳の祈祷」と題されていた。この所は、弁栄上人が、キリスト教やプラトン哲学を考慮して書いている所があります。例えば、「同体大悲の愛」の愛です。ギリシャ語で四つあり、神からの慈愛・恩寵であるアガペ、性と知への愛エロス、友の愛フィリアと、四つ目の一つで、河波先生が言われた慈愛等の愛カリタス〈ラテン語〉では無く、家族愛のストルゲです。このストルゲは近藤伸介先生が「ひかり」誌〈十月号〉で、正しく記して頂き良かったと思います。
 また、徳とは卓越性であり、徳目の用語の中で、「正義」は、ハルモニア=調和〈すること…自然かつ、あるべき調和ー著者は現代で特に重要と痛感する徳目〉。キリスト教で大事な語「謙遜」で謙遜しない人は神の国に入れないと言われます。
 「内霊応に充給い」とは、我々の心にまざまざと阿弥陀様がうつることです。うつる方面に二つあり、一つは実在性―つまり、心の中にある―が予想されます。二つ目は、現実性―つまり、実際にある―が予想されます。そして、それが、「退か不退」という問題があります。弁栄上人が、例えば、柿を見て一時的に覚る「退」がある状態から、何をしていても永続する「不退」の覚りにして行きました。そうして行くことが大切です。三相五徳でお釈迦様がなぜ麗しくなられたか?それは、「仏仏相念」つまり、仏と仏と相念じ合ったからです。仏であるお釈迦様が南無阿弥陀仏して〈阿弥陀様と念じ合って〉いたからです。
 「如何なる境遇にも姿色を換えざる」では、いつも阿弥陀親様が私を見ていて下さっているという気持ちが大切です。
 以上が礼拝儀のご法話ですが、この前に語られたことは、「本年が、山本空外元上首上人の十七回忌〈佐々木隆将上人も〉なので、お上人の絵画の本を出版しようとしましたが、とん挫して残念でした。絵画資料があるべき所にありませんでした。その替わりと言ったらなんですが、自坊で書の空外展を昨年行いました」と述べられました。
 最近山科道場に光明主義とお念仏を習いに来られた禅宗の僧侶が一人初参加されました。その方にも教えましたが、今回も、正しい礼拝儀楽譜通りの「三礼」の節で維那をさせて頂きました。現在各地の状況は、そうではなくばらばら異なった節で唱えられているので、より正しい礼拝儀楽譜を作成し、その声のCDを作成し、本部へ提出検討して頂く予定です。

以上

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