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聖者の偉業

聖者の偉業 No.3 無礙光2

出典『観照」 昭和5年12月4日 谷 安三師 速記

「無礙光」(前号からのつづき)

仏道的道徳

ここにいう如来の道徳とは仏道的道徳である。すなわち如来の心を心として、段々と進んで行くのが如来の道徳である。その起源は最完全なる本有法身より、千百億の釈迦一時に分身してそれに説法せられ仏になる道を説かれた。そうしてその一々の釈迦各々その国土に帰って説かれた、それがすなわち仏道である。ゆえに仏道を信じ仏道を進む時には段々といらないものがぬけて仏に向かって進む心が開けてくる。

仏、衆生の是とする処と、非とする処を知り給う(三種の)智力

  1. 神聖
     如来智慧を以て道徳的【父】
     行為を観照し給う【父】
     神聖に対する人の正見【父】
  2. 正義
     正見から出てくる行為【母】
  3. 恩寵 【母】

無辺光と無礙光の区別をいうならば

真理を知らしめる。 無辺光
行為を照鑑(※1)する。 無礙光

この正見を得せしめるのが無礙光である。なぜ良心と言わずに正見というかとならば、良心は風俗習慣に規定せらるるものである。ところがこの正見となる時は風俗習慣に関せず、一向に如来に向かう心である。正見の反対は邪見である。

正見が明らかになってくると善悪がよく分かるようになってくる。孟子が「千万人と雖も我れ行かん(※2)」と言った大いなる自信はここからくるのである。この見というのが非常に大切で、見が間違っていると他のすべての事が間違ってくる。それだから邪見の人は恐ろしい悪事をしても悪いとは思わない。聖人の説く道徳も霊覚者の説く宗教もみな方便であるとして信じない。元来この道を行けば仏になれると言う事を一心に信じて、その道をどこまでも行けばこそ仏になれるのである。

正見とは如来の神聖に叶う心である。この正見から出てくる行為を正義という。善悪と正邪との差はただ主観と客観との相違である。

 正邪 主観的
 善悪 客観的

ゆえに正見とは主観的善の義であり、邪見とは主観的悪の義である。
正義。悪を捨て善を取り、邪を捨て正を取る。
正思。正語。正精進。正命。正念。正定。八正道とはこの正義の七つと正見とを合わせていう。
弥陀の正義は決して清濁正邪を併せて呑むものではない。邪を捨てて正をとる。それが弥陀の選択本願である。

 弥陀本願。選択摂取。
 国土麁(※3)妙。天人善悪。

国土では麁を捨てて妙を取り、天人の中には善を取り悪を捨てる。我々は日々夜々刻々に種々な事を考えるけれども悪い念はみな捨てられているのである。いくら種々な事を考えても本願に乗じない事はみな無駄骨である。我々は日々いかに多くの無駄骨を折っている事であろう。

 正思は如来の神聖主義を思い、
 正語はそれに従って語り、
 正業はそれに準じた行動を為し、
 正精進は専らそれに向かって進む。

次に正命の「命」は「いのち」即ち生活です。命にも肉体、すなわち形の命と心霊の命とがあります。この肉の命だけならば他の物を盗んで食うても甘いものはやはり甘い、養分のあるものを食えば、たとえそれが不正のものでも身体はやはりたってくる(=身体を動かすエネルギーとなる)。ところが心の命があるゆえに「渇すれども盗泉の水を飲まず(※4)」というようになってくる。弥陀から養分をとり、信仰の命を養っているととなんとなく勢がついてくる。弥陀から離れるとなんとなく寂しくて心が痩せる様に思う。それが信仰の命である。

次に正念。同じ念うであるが、念とは如来様が自分の心の中にしみ込んでしまって始終離れない、何となく懐かしい親しみがある、そういう状態をいうのである。

人間が一日に起こす八億四千の念の中、如来様の事がいくつあったであろうか。如来様に摂取せられたものはいくつ、捨てられたものはいくつであろう。摂取せられたものより捨てられたものの方が多いようである。そういう風に始終如来様から離れる事が出来ないのが念である。

正定とは念が固まって動かないようになった所をいう。そうしてこれらのすべてはみな神聖から出てきたもので、すべて正義である。この神聖と正義とによりて我々は一歩一歩、極楽へ向上していくのである。

それならば我々は初めから完全なものではない罪悪生死の凡夫であるから善い事をするより悪い事をする方が多い。そうしたら我々の行為はみな捨てられてしまって臨終の時、本当に救われるのか、という疑問が起こってくる。そこに恩寵の有難味があるのである。(私が)常にいう如く、神聖正義は父であり恩寵は母である。子供でも先ず母の懐に養われて、しかる後、父の手に移るように、我々も最初はまずお母さんの恩寵のお蔭によりて霊の眼を開いて頂いて、しかる後、お父さんの神聖主義の教育を受けるのである。

※1 照鑑=如来様がすべてを明らかに見給うこと。「観照」も同意。
※2 孟子「千万人と雖も我れ行かん」=自分が正しいと思う時は、たとえ相手が1千万人であっても断じて後へは退かないという確固たる信念を述べている。
※3 麁=バラバラ。荒々しい。
※4 渇すれども盗泉の水を飲まず=孔子がどんなに喉が乾いても、盗泉という悪名の泉の水は飲まなかったという故事から、どのような困苦に出合っても、いかがわしいものの助けは借りない意。(『広辞苑』参照)

(次号へつづく)

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