出典『観照』第13号 昭和6年7月 谷 安三師 速記
「無対光」仏道の帰趣(終極)
衆生と仏、反対の位より解脱して終極始本一致の状態
衆生は仏陀の反対
衆生と仏陀 相対と絶対 有限と無限
絶対無限の光明に 摂化せられし終わりには
諸仏と等しき覚位を得 大般涅槃に証人す
「無対」とは対比すべきものがなくなった状態。生死を離れ始めもなく終わりもなく時間空間を超越した所である。仏道帰趣終極すなわち菩薩が段々に進んでいって、最後に仏になった所である。その無上大道を進んで行くべく経路が無対光より与えられている。この帰趣の「帰」は如来様の方から見た言い方で、「本に帰する」、すなわち子を段々と育てあげて親の様にするのが「帰」である。それから「趣」という事は我々の方から言った言葉で追々と親の方へ趣いていくのである。
宗教心理の二面
開発-仏性(形式)
仏性なるが故に煩悩実質に対比する時は形式
霊化-煩悩(内面)
ドイツのヘルバルトという人がこの開発という事を主張するまではドイツの教育法は全く注入主義であった。ところがヘルバルトが出て、本来教育とは人間の持てる性を開発するものであると説きだした。
植物が生長して親木の様になるのはその種子に本来その親になるべき性を具備しているからである。もし注入で智慧が開発されるものならば牛や馬でも教育さえすれば人間の様になり得るはずである。ところが本来持っていないものにいくら注ぎ込んでもダメである。
けれどもヘルバルトの論は一面のみを見た論であって不完全である。人間の性の中には開発しなければならぬものと、また教え込まねばならぬものとある。この方面を併行してとらなければ完全ではない。
仏教においては仏性を開発し煩悩を霊化する。我々が本来持っている仏性を磨きさえすれば物を判断して悟りを開く性を持っている。
また、この煩悩は内容であって、この煩悩という実質を霊化して、菩提心という立派なものに化していただくのである。渋柿の渋がそのまま甘い柿と変わるのである。煩悩則菩提で煩悩が無くなるのでない、霊化されるのである。人間の肉欲飲食の欲もある程度まではこの肉の生命を保つ上に必要である。しかしその度をこすと害をなす。人間は生まれながらにして貪瞋痴の三つの性質を持っている。
貪:物を貪る性があるから種々な欲も起こる。またこの肉体の生命をも持続する事が出来るのである。 瞋:瞋る性質があるが故に他から害せられない様に自己を守ってゆく事で出来るのである。 痴:また解らない事、力の及ばない事すなわち自己の欲望の満足せられない時には悲しみ愚痴をこぼす。
それが向上の欲望となるのである。ゆえに悪い欲望はいけないけれども善い欲望は必要である。善い欲望が無かったらば到底仏になる事はできない。
- 衆生無辺誓願度
- 衆生は無辺なれども誓って度せんことを願う。
- 法門無尽誓願知
- 法門は無尽なれども誓って知らんことを願う。
- 無上菩提誓願証
- 菩提は無上なれども誓って証せんことを願う。
(「四弘誓願」『浄土宗日常勤行』より部分引用)
こうした欲望、一切衆生を救いたい、無尽の法門を究めたい、無上菩提を得たいという様な願望がなかったならば仏になる事はできない。ゆえに煩悩を霊化すれば今まで悪を用いておった本能が変じて、今度は善い働きをするようになってくる。我々が無辺光によりて智慧を与えられ、宇宙を如実に観、相好円満の如来様を拝み、妙色荘厳のお浄土が現れてくる。また無礙光に実行の智慧を与えられ、清浄歓喜智慧不断の光明に霊化せられて、進み進んだ終極はどうなるかといえば、如来の無限光明中において無対の仏となるのである。それが無対光すなわち対比するべきものが無くなった絶対の境地である。天地間のすべての事はみな相対的である。生あれば死あり。始あれば終局あり。前あれば後あり。楽あれな苦あり。光明あれば闇あり。長短大小善悪何一つとして相対的でないものはない。
しかし如来は絶対である、無対である。如来は生死を超越して始終なくその働きもまた無限である。しかるに我々衆生はその反対である。その反対である所の相対的衆生が如来の光明に摂取せられ、霊化せられていく。その終局には絶対無限の如来の無始本初真如の都に帰着するのである。それが始本一致の状態である。初発心の仏地に到る階段。
(無対光つづく)