光明の生活を伝えつなごう

聖者の偉業

聖者の偉業 No.7 炎王光1

出典『観照』第14号 昭和6年8月  谷 安三師 速記

「炎王光」(消極的)

衆生無始の無明より 惑と業苦の極なきも
大炎王の光にて 一切の障り除こりぬ

衆生の脱却すべき素質を明かす。
炎王光。衆生の垢質を滅却する事、火の物を焼くに喩える。
無始。衆生生死の根源深遠にして端無き。
無明。一切惑業苦の源。

無対光は開発霊化によって段々と完全なものにして終に親に合致さす力である。すなわち積極的である。

炎王光は消極的の方面で、惑業苦を焼いて亡ぼす力である。人間は生まれながらにしておとさなければならぬ垢を持っている。それを焼き尽くしてしまうのである。要らないものを焼いてなくしてしまえば後にはかえって焼けない立派なものが残る。一心に弥陀の光明を念じたならば太陽の光がその殺菌力持って細菌を除く様に、煩悩という細菌を滅却する力を持った弥陀の炎王光によっていらない垢がぬけて立派なものになるのである。

我々はこうして無明の世界に迷っているが、それはいつからだと言えば端もない無始である。この無明が因となって生死を結果するので、しからばその無明の本質は何かといえばそれは無始である。無明と光明、闇と光と言えば二元の如くに考えられるが、本来は光明なのであって、その光明を背に受けるが故に闇となるのである。すなわち悟れば光明遍照十方世界であるが、迷っておるが故に無明の世界である。すなわち体に於いては一元(光明)でそれが相において光明と闇との二面となる。

人間長生をして八十年の命を得たからとて永遠から見れば一刹那に過ぎない。その方からいえば我々は何の価値もないのである。しかし、我々が静かに眼を閉じて観念する時には無限をも観念する事が出来る。その方からいえば我々は時間的にも空間的にも無限である。

本来、心というものは消えるものでもなければできるものでもない。もとからあるのである。見たり聞いたりする、それが心だと思っていると間違いである。例えば盲人に見る性は無いかと言えばやはり見性はあるのである。ただ眼という機械がこわれているから見えないのであって盲人は暗闇を見ている。

釈尊が阿難尊者にお示しになったのに御自分の手を上げて「これは真直であるかどうだ」とお聞きになった。すると阿難尊者は「真直でございます」とお答えになった。釈尊が仰せられるのに「衆生の心は丁度そういう風なものである。本然自性清浄
盲塵分別影像

本然自性清浄

今まで見たり聞いたりした事は影である。影法師であって外から受けたものである。色、声、香、味、触、皆影法師である。直感的に自己を内観すれば心は無限である。思われるのはこちら方の心である。総ての事は自己自性精神内のものである。心の本体は絶大無辺である。我々は過去無量劫未来無量劫を考える事が出来るけれどもそれはいまだ小さい凡夫がいくら想像を逞しくしても仏の無限には及びもつかぬからである。それが全部見える様になったのが大円鏡智である。

我々はこの肉体からいえばこの無限の大宇宙の中の一小惑星の寄生虫に過ぎないかれども、自性清浄の方からいえばその性が無限である、一切の物は観念内のものである。

我々は衆生の子供の性からいえば無明生死の一不幸児である。しかし、如来様の子供という点からみれば仏であって絶対無限である。

盲塵分別影像

惑  過去の垢
業  現在の垢
苦  未来の垢

我々が生まれながらに持っているのがすなわち惑である。その惑より業と苦とが現れてくる。煩悩にも、もとから持っている煩悩と、罪から出て来る煩悩とがある。苦が惑を生むわけであるが、業を生めば業によって罪悪が生まれる。惑は動機である。

我々人間は生理衝動と言う、生きんとする意志を持っている。それは動物の痛性である。我々の阿頼耶は本来、善悪無記である。善でも悪でもない。しかるにその本来無記の阿頼耶が何故三善三悪の六道を形づくるかと言えば、見たり聞いたりするものに依って惑わされるが故である。その本来無記なる阿頼耶に染みこんだいらないものが惑である。心が寝て居る時にはいかに悪口せられても何の腹も立たないのである。我々はこの惑の依って六道生死の種を受けるのである。

惑に見惑と思惑とがある。
見惑、意識的、過った見解(見惑に十見あり。内五見だけを説く)

  1. 身見。霊魂は身体にありと見るもの(肉団心のみを心とするもの)
  2. 辺見。一方に辺して見る見解
    1. ①断見。霊は死んだら亡くなる
    2. ②常見。人間は人間、犬は犬と始めから定まって動かす事の出来ないものと見る
  3. 耶見。因果撥無。聖人の教を排す
  4. 禁見。戒禁執見。形に囚われた見解
  5. 取見。先入主観に囚われた見解

思惑。整理衝動(動物共通)本能的煩悩
貪。生きんとする、欲物を貪 情緒
瞋。怒り他に犯されまいとする心、正当防御
痴。無自覚の者は何の為に生きているか知らない
慢。自負心

(次号につづく)

この曲がっている手を真直だと見る、それは心が顛倒している」というのである。見れば見る方へ、聞けば聞く方へ心がいって直を直と見る事が出来ない。曲を曲と見る事が出来ない。

本心、

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